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アルディ先生

ジョグジャカルタへ

1993年4月26日から5月2日にかけて、再び単身でバリに赴いた。土地は入手したものの、さて、どうやって建築にこぎつけたものか、その渡りをつけなければならない。
どんな家を建てるかについても、研究する必要がある。そこら辺りにある、バリ風の家にしたい、と考えているが、バリ風とはいったい何かを、正確に理解しているわけではないし、現地の建材事情もよく知らない。自分で設計したら、相当程度偽物のバリ建築になることは間違いない。
とにかく、虚心に相談してくることにした。相談相手は、ジョグジャカルタにあるガジャマダ大学のアルディ・パリミン教授である。A-HOUSE-IN-BALIのメンバーである大阪大学のN教授に紹介してもらった。
ジョグジャに先生を訪ねた。20年以上もバリ建築の研究をしている方で、設計を頼んだラーマの言によると「大変偉い先生」である。
有益な示唆がたくさんあって、アピアピの具体像が大いに明確になったが、それ以上にアルディ先生の人柄と車に感銘を受けた。
先生は、色黒でどっしりとした体格、うすいけどボサボサの頭髪を掻き掻き、所々歯の抜けた口を開けて磊落に笑う。よれよれのシャツとズボンをさらによれよれに着こなして、サンダルをパタパタいわせながら少し前かがみで研究室の中を歩き回る横に、助手のシタ女史がニコリともせず、スーツをピシッと決めて付き添っているのが印象的だった。

バリ建築を教わる

2日前に強引にファックスでアポイントメントをとるなどという失礼をしたにもかかわらず、先生は随分親切に、結局ほとんど丸1日潰してつきあってくれた。
私のラフプランを見ながら、いろいろ語っていただいた中に、有益なサジェッションがたくさんあったが、そのひとつは、バリ建築の柱と壁との関係だ。柱は屋根を支える構造だが、壁はその下でスペースを区切るもので、原則として柱と壁とはそれぞれ独立しているということ。そういわれてみると確かにそうで、壁が構造から独立しているために、様々な意匠の表現が現れているように思う。
もうひとつは、バリ建築は紙の上でデザインしないで現場の大工さんに任せた方が、よっぽどかっこいい建物ができる、ということ。先生は「やつらは本当に上手だから」という表現をした。ワルタースピーツがウブドゥの美術館を設計したときも、簡単なプランしか見せないで、現場で
「あなたならどうしますか?」
という調子でやったのだそうだ。考えてみれば、日本建築でもそうだ。下手なデザインをしないで、必要な機能だけ示した方がよさそうだと思えた。
先生と昼過ぎまで研究室で話をした後、シタ女史と3人で中華料理をご馳走になった。

アルディ先生の車

中華料理屋までは、先生の車で出かけた。車は、1976年に買ったというトヨタで、ワゴンタイプの相当角張った車である。
左の前部ウィンカーはかなり昔にとれてなくなっている。バックライトの片方はガラスがなかった。サイドとリアの窓はすべてアルミサッシの引戸である。
ジョグジャカルタの大通りの真ん中で、この車が突如止まってしまった。ボンネットを開けて、何本かのプラグを押したり引いたりしてみたが、いっこうエンジンがかからない。
ボンネットの中はきわめてすっきりしていて、私にも一目で全ての構造が理解できた。無骨で色あせて錆び付いたボディーと、油汚れと砂ぼこりと、「今日はとくに暑いです」というジャワの灼熱の陽光と、ひしめく車のクラクションの喧噪とにもかかわらず、ひとことでいうと、ボンネットの中はとてもかわいらしかった。この車とだったら、ジャングルのフィールドワークに運命を共にできそうだ。

やがて先生は、4車線の大通りを向こう岸へ横切って、5リットル缶2箇分のガソリンを手に入れてきた。後ろから、集金袋を腰につけたおばさんが漏斗をもって、これも車をかきわけながらついてくる。2人でガソリンをついだら、それが唯一の原因だったのかどうか、エンジンがかかった。
「変ですね、変ですね」
といいながら、そのままうまく大学まで戻る。手を見たら2人とも油まみれだった。先生はその手でしきりに頭を掻きながら
「日本に帰っていわないでね、このこと」
と照れながら繰り返した。

A-HOUSE-IN-BALIの建設体制固まる

その後ウブドゥに帰ってから、思いのほか話が進み、次のような体制で建築に臨めることとなった。
設計監理:ラーマのチーム
施工:ペネスタナン住民でチーム編成
総工費:5千万RP以内
ただし、この体制は後で少し変更されることとなる。とりわけ総工費は、大幅に変更されてしまった。
村のひとたちも、マデも、ラーマも、そのほか大勢の協力者のひとたちも、皆出来上がるのを我がことのように楽しみにしてくれている、というよりも、腕まくりをしている風情であった。
アルディ先生が7月に調査でバリに滞在するそうなので、その時にまた様子を見に来てほしいと約束をしたが、結局連絡がうまくいかなくて果たせなかったのが、つくづく心残りである。
数年後に、先生の訃報を聞いた。

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