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バリの誕生

バリは4回誕生した

鏡味治也氏によると、バリ島はおよそ半世紀ごとに4回"誕生"し、そのたびに「人々を魅了するバリ島のキャッチ・フレーズ」が産み出されてきたという(「バリ・華花の舞う島」古屋均他、平河出版社)。
それによると、19世紀初頭にイギリスの植民地統治官ラッフルズがヒンドゥー文化の名残としてバリの風習を紹介し、まず「ヒンドゥーの島」バリが"誕生"した。
その半世紀後に今度はイギリスの博物学者ウォーレスが、バリ島とロンボク島の間に後に言うウォーレス線を発見し、バリは「アジア最後の島」として"誕生"する。
そのまた半世紀後の1889年パリ万国博覧会で、ガムラン楽団の演奏がヨーロッパの音楽家に強烈な印象を与え、バリは「芸術の島」として"誕生"。
さらに、第二次大戦後アメリカのハリウッド映画やミュージカルを通して「南海の楽園」バリ島が"誕生"した。

これに付け加えると

これに付け加えていうと、1930年代にアメリカの音楽家コリン・マックフィーやメキシコの画家ミゲル・コバルビアスなどのバリ島滞在記が紹介されて、楽園のイメージが固定しはじめている。
ところで面白いことに、このマックフィーやコバルビアスが描いた、当時の人々の暮らしぶりや踊りや音楽は、とても80年も前のこととは思えない。現在のバリそのものである。西欧文明が勝手に何度も"誕生"させている一方で、バリは頑固に自らを"持続"させていたわけである。
バリの誕生について、最近の大ざっぱなエポックとしては、60年代のサーファー達による発見とビーチの開発、80年代後半からの高級リゾートブームと海外観光資本の流入、日本人旅行者の急増、などが列挙できるだろう。

日本的なものの進出

南半球とはいえ、バリ島は意外と日本に近い。福岡からガルーダ・インドネシア航空の直行便で飛ぶと、6時間で州都デンパサールに着いてしまう。
日本に近いから、日本的なるものの進出も甚だしい。ホテル、ショッピングセンター、旅行会社、あるいはこの地に「はまって」住み着いた若者や花嫁たち。中には、楽園にそぐわないビジネス的向上心をもって、バリ人や群がる観光客を食い物にしようという小商人の手合いも跋扈している。
近いから、私も何度も通って家を建てることができた。それはそれで文化破壊に加担していないとはいえないが、撹乱があったにしても実につつましいものだ、ということで許して貰おう。

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