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サンガ考

家のサンガ

“サンガ”というのは、屋敷内に設けるヒンドゥー教の祠のことである。石でつくってあって、椅子の形をしている。幼児が座るほどの大きさである。

家の敷地内にサンガを祀らなくてはいけない、というのは、バリ人にとって語るもばかばかしいくらい自明のことであって、サンガのない家ではどう暮らせばよいのか、想像もつかないらしい。
それで、アピアピにも、とくに注文をつけたわけでもないのに、立派なサンガが東北の角につくってある。

東北の角というのは、アグン山を望む方角であって、バリの方位感覚はすべてアグン山を基準に構築されている、と聞いた。
コリン・マックフィーの書き残した中に、こういうのがある。

--- あるとき、天才的踊り手の少年が、ほかの土地で公演することになったのだが、アグン山の方角がわからないために感覚を失って、どうにも踊れなかった、というような話である。

サンガ=9

ちなみに、サンガはsanggahと綴るらしい。これに似た綴りを探しても、インドネシア語の辞書には見あたらないので、バリ語かと思っていたが、ひょっとしたら、バリの神々の体系「ナワ・サンガ」に由来した、古いジャワにつながる由緒正しい名称ではないかと思い当たった。

ナワ・サンガは、バリ・ヒンドゥーの宇宙を象徴する体系概念である。
中心のシヴァとあわせて9つの方位にそれぞれ固有の方位神が陣取った姿をいう。小野邦彦氏によると、ジャワの9つの方位神の体系が受け継がれたもの、とのことだ。

「以上の諸点に鑑みれば,ナワ・サンガは,元々ジャワに由来する東西南北で示される方位に基づいて体系化され,それが後にバリの『方位観』と結びつくことになったと見るのが最も妥当な解釈であるように思われる」(古代ジャワにおける方位と神格、小野邦彦)

9はインドネシア語ではsembilanだが、バリ語ではsange、ジャワ語ではsongo、古ジャワ語ではsangaである。sanggahと似ているし、方位に関連しているというのもなにかつながりを感じる。

ブグド碑文

話はかわる。

かつてシルクロードのオアシスルートを経由して、東西世界の交易に活躍したソグド商人は、6世紀から8世紀に内陸アジアの高原に覇した突厥(チュルク)国にも深く食い込んで、その政治、経済、文化に大きな役割を果たしていた。

ソグド人の故郷は、ソグディアナまたの名をマーワラー・アンナフルという地域に栄えたオアシス都市群である。胸を焦がすような地名だ。それだけではなく、その地は実際に「10世紀後半のアラブ人地理学者ムカッダシーの言そのままに、『神の創りたまいし此の世にて、麗しきこと類まれなる土地』『世界の四大楽園のひとつ』であった」(護雅夫著、古代遊牧帝国)という。

同書を読んでいると、ブグド碑文というのに行き当たった。1956年にウランバートル西方のブグドで発見された突厥帝国時代の埋葬遺構に含まれる、砂岩製の石碑碑文だという。ソグド語・ソグド文字で書かれたという碑文中に、次のような一節が目にとまったのである。

「主君ブミン可汗は命じた。(中略)『ひとつの大きくて新しいサンガ(samgha)を設立せよ!』と」

護氏の解説によると、サンガは「『僧伽』と音訳、そして『衆・和合衆』と漢訳され、本来は、いうまでもなく『修行僧の集まり』『仏教徒集団』を示すが、ここではsamgha-arama(僧伽藍摩)、僧伽藍、伽藍、すなわち『衆園・僧園・僧院』、つまり仏教寺院の意味で使われるとみてよい」ということである。

ちなみに、もとの“サンガ”はサンスクリット語であるから、インドからソグド人の手でシルクロードを経てモンゴル高原にまでもたらされたことになる。

わたしにはこれ以上の知識はないが、もともとサンスクリット語ということから強引に敷衍すると、ヒンドゥー教がインドからジャワを経てバリに伝わる過程で、サンガの語感のなかに、「伽藍」のニュアンスも少しは記憶されたのではないだろうか。

家の東北角にちょこんと設けられたサンガと、アンナフルのオアシスとのかすかなつながりを思うと、実にはるかな気分になる。

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