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楽園の島

地上の楽園バリ

外国というのはいつも刺激的だ。外国には、悩んでいる問題に対する解決方法の例が、思いもよらない形で、さりげなくある。

20世紀を代表する建築家のル・コルビジェが「デザインのモチーフに困ったらガルダイアに行け」と言ったというのも、そういうことだ。
アルジェの南600kmの砂漠の都市ガルダイアには、パリあるいは近代西洋文明では考えもつかない造形がふんだんにあるらしい。地球外生命が営む国があったとして、そこに行くことができれば、おそらく、地球上での暮らし方についてとてつもなく斬新なアイデアを得られるに違いない。

日常に対してだんだん物わかりがよくなって、どうもワクワクしないな、どこかの分かれ道で選択を誤ったのではないかな、というような感覚をもちはじめたら、外国に行ってみることだ。今の日常とは全く異なる場所に行くと、安心して心を後戻りさせることができる。

とりあえず、どこがよいかと問われれば、わたしなら即座に「バリ島」と応える。その理由はたくさんあるが、もっとも重要なのは「バリ島は地上の楽園である」という事実である。

楽園というのは・・・

楽園には、2種類あるとかねがね思っている。
思い切って単純にいえば、それは「黄金郷」と「桃源郷」である。

このことについては、ちょっと気を入れて調べてみたので、別稿に記す。

黄金郷は、みんなが憧れて奪い合いになってしまうようなところなのだが、桃源郷は、言ってみれば”持続の楽園”であって、外から搾取されるような場所ではない。

さてバリ島では

わたしの見るところでは、バリ島は桃源郷である。一言で言うと、あそこの楽園の本質は、「安心」という中にある。例えば、こういうことだ。

人々が、意味のない上昇志向から無縁であること、無縁でいられること。男の子は父親の、女の子は母親の人生観や世界観に倣い、親の生きてきたように生きることで、喜びを得ることができる、と信じられること。
それから、お互いの理解の不足を無理矢理埋めようと血眼にならなくても、わずかな理解のままで、共に暮らしていけること。過剰な理解を求めることによって生まれる、小賢しい小さな政略への欲望に悩まされなくてもすむということは重要だ。

ジャワ人もインド人もたまに来る日本の客も、別にどうということはない。好きにやりなさい、困ったら助けてあげるから。
闘鶏の好きな人も、負けて羽根をむしられる鶏がかわいそうと思う人も、ギャンブルの苦手な人も、それぞれ、笑ったり、泣いたり、怒ったりして楽しめばよい。
お金がある人は使えばよいし、ない人は貰えばよい。場合によったら、ちょろまかせばよい。皆、思うようにすればよい。いざという時はお互いに支えになろう。支えになれなくて、のたれ死にしたとしても、それはそれで自然の摂理。

そう言われると、そりゃそうだとしか思えない。
ひっくるめて言うと、バリ島で私が学んだのは、こういうことである。なぜ、どういうシステムで楽園となったのかはわからないが、いかに、どのように楽園であるか、ということは様々に体験した。

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