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ガーネシャ

10数年前の話し。ガーネシャはシバ神の息子で、体は人間、頭は象という神様である。ブームらしくて、近くのバツブランの村で売っているのを、当時よく見かけた。
ここで採れるパラスという石は、粘土から固まったばかりのような柔らかい石で、特有のベージュ色の層状模様が入っている。バツブランの石彫は、この美しい石を刻んで作っている。刻むのには、ごく普通の小型の手斧と、板バネを細く切って研いだ鑿を用いる。ちなみに、この村では子供も大人もみんな石彫作家である。

完成品のガーネシャがランダムに並べられた一角に、未完成品が一体置いてあった。

高さ40センチ程度。荒削りの段階のもので、これからディテールを彫り込んで完成させるにはまだ2日はかかるだろう。荒削りではあるが涼しい目をしていて、完成品と比べて骨太な分だけ味わいがある。マデも「パワーがある」というので、これを買うことに決めた。
「これは4万ルピア」

と男がいう。作りかけにしては高い。

「それじゃ、こちらの完成品は?」
「これも4万ルピア」
「でもこっちは未完成だよ」

それに対する男の回答はふるっていた。

「でも、完成させれば4万ルピアで売れるんだから、あんたが今欲しくて持っていくというのなら、やっぱり4万ルピア貰わないと合わない」

何となく納得してしまう。結局3万ルピアでお互いに手を打った。

何となく納得した理由を、その後しばらく考えた。
これはおそらく、労働の価値についての彼らの主張を受け入れたせいであろう。働くことは日々の暮らしそのものであって、今この未完成品を購入するということは、2日分の生き甲斐を奪ってしまうことにもなるのだ。

イギリスの経済学者であったシューマッハ博士はかつて、ガンジー聖書まで引き合いに出して、途上国にあっては大量生産ではなく大衆生産をこそ目指すべきだと説いた。ここの人たちの暮らしは、そのお手本のようなものだ。問題はそれが解体しつつあるのか、より確立されつつあるのか、ということだろう。
願わくは、その感覚を持ち続けて、より確かなものにしてほしい。願わくは、単に変な趣味の観光客の足下を見て、値をふっかけたのではないことを。

その時のガーネシャは、いま私の自宅の庭にある。10数年の日本の風雪に耐え、ドウダンツツジの木の下の薄暗がりの中で苔むして、独特の存在感をはなっている。

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