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私はテギを作った

マデは画家である

私の友人イ・マデ・テギの名前は、I MADE TEGIGと綴る。
"イ・マデ"まではよくある名前である。町中に「I MADE ○○」という看板をよく見かける。ギャラリーなどの名前が、個人名で表示してあるのだが、しばらくはそれが名前だとは考えないで、「私が○○を作ったから買わないか」という意味かと思っていた。

マデは我が家の管理人であると同時に、私の仲間である。1967年12月29日生まれ。
彼の生家は、ウブドゥの町に隣接したサヤン村のバンジャール、ペネスタナン・クロッドの中にあって、一族20人程が一緒に生活している。
このバンジャールの住民は、ひとり残らず画家である。誰にあっても「私はペインターである」という。従って、マデもマデの両親もマデの兄弟も、みんな画家である。
93年2月に結婚、4月に息子トリスタンが生まれた。奥さんもペネスタナンの人。96年7月に生まれた娘ウタリラクスミとあわせて一家4人が現在我が家の別棟に住んでいる。マデの両親は実家と我が家との間を行ったり来たりしている(その後、2005年には次男のコマンが生まれ、そのうちマデの両親もうちに住み着いて、都合7人家族となった。2013年現在、マデたちはアピアピの向かい側に新居を建ててそちらに移り、アピアピには両親ふたりが住んでいる)。

トリスタンの名前

トリスタンのフル・ネイムは"イ・プトゥ・トリスタン"である。近所の大邸宅に住んでいたスペイン人の老画家ブランコ氏が命名した。マデの奥さんがしばらく働きに行っていたという縁だそうだ。
ブランコ氏は小柄なおじいちゃんであったが、そこら辺に普通にいる人ではなかった。とても有名な画家だそうで、ポマードで養生したような立派なヒゲを蓄えた、サルバドール・ダリを彷佛とさせる風貌の人だった。大邸宅の中で、ポンチョみたいな簡単な布を羽織って、裸足にサンダル履きという出で立ちで、あっちの部屋からこっちの部屋へ神経質そうに歩き回ったり、柱の陰でファックスを送ったりしていた。
何年か前に亡くなったが、盛大なお葬式だったそうだ。トリスタンは、その由緒正しい命名に負けず正しい少年に成長し、成績は常に学校で一番である。マデは鼻が高い。

ウタリラクスミの名前

ウタリラクスミのフル・ネイムは"ニ・カデ・ウタリラクスミ"である。ウタリラクスミはヒンドゥーの神様の名前だと言うことだが、省略して「ウタリ」と呼ばれている。
ウタリは、少しはにかみやさんで、なかなか私に馴染んでくれないのだが、幼年ながらきりっとした中にほのかな色気をたたえた黒い瞳は、正直言ってこの世のものと思えないほど可愛い。この点に関しては、我が家を訪れる友人たちの共通する評価である。成長して何人の男を泣かせるものか、末恐ろしい。マデの鼻はますます高い。

マデが仕事をやめた理由

マデとの馴初めは古い。
92年の6月の夕方、ペネスタナンの集会所で村の若い衆たちのガムランの練習を見学していた時に会ったのが、初対面である。

「日本人ですか? 私日本語習っています」

というのが彼の第一声であった。この時は、私の会社の社員旅行で、何人かの若い女性社員もいっしょだったから、ひょっとしたら、彼の目的は私でなかったかもしれない。
ほっそりとして鼻筋が通り、いくぶん色白なマデは、どこかバリ人らしからぬ第一印象を与えたが、実直で人を裏切らない性格は、バリ人そのものである。

その頃はマス村にある日本資本の留袖絵つけ工場で、絵つけの指導をしていた。それ以来、村のガムランの練習があると声をかけてくれるという関係が続いたが、しばらくすると勤めを替えて、ウブドゥのギャラリーに行きはじめた。またしばらくして子供ができてからは、ついにそこも辞めてしまった。無職である。

転職癖がついて落ち着かないのはいけないと思って

「君は結婚して子供もできたんでしょ?家も建てなければいけないし、奥さんや子供も養なわねばならないのに、仕事を辞めてどうするの?」

と尋ねたら、その答えが実に意表を突くものであった。

「しかし、奥さんをもらって、子供までできたので勤めに出る暇がなくなった」

というのである。私は面食らってそれ以上諭すことができなかったが、後で考えればこの答えの含蓄は深い。

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