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西のほうに行ってみた

火山島

バリ島は火山島である。

島の東部にそびえる標高3,031mのアグン山は1963年に爆発を起こしたのでひときわ存在感があり、そのためにバリ島全体がアグン山の単独のコニーデで構成されていると、わたし自身はなんとなく誤解していた。しかし実は、たくさんの火山からなる複合火山の島だということだ。
実際に、いまは標高が1,717mしかない中央部のバツール山は、大昔に大爆発して本体が吹っ飛んだ名残で、もとの山体はアグン山よりもはるかに大きく、あとに残された巨大なカルデラが往時の規模を物語る。
そのほかにも、島の西部にかけていくつもの火山が見える。いずれも活火山なのだそうだ。

それぞれのピークから火山麓特有の斜面が複層的に重なって、海に向けてなだらかに裾を広げている。

V字谷

そこに、たくさんの湧き水が噴出して放射状に流れ落ち、台地をえぐってV字谷をつくっている。

V字谷を降りたところを流れている水の幅はたいていが数m程度であるにもかかわらず、尾根と川床との標高差は、50~100mもあり、上流に行くと150mに達するところもあるという。
だから、台地の上を等高線に沿って移動しようとすると、何度もその深い谷を越えなければならない。そこでどの集落も、川と川とに挟まれた尾根の上に、うなぎの寝床のように長く連なって形成されている。

水田を灌漑する水路は、綿密に勾配を確保しながら、はるか上流から引かれ、途中で何度も何度も水がかりをしながら下流をうるおす。その管理のためにスバックという水利組合が設けられ、強力な権限で水利の調整を行っている。

電気ポンプや上水道が普及していなかった頃の生活用水は、この用水路ではなくもっぱら川に依存していた。以前は、集落から谷に下りる坂道に、ポリバケツを頭に載せた女性たちの行列がよく見られたものである。

マンディ(水浴)には、農業用水路を使ってもいたが、大きなマンディ場は谷を下りた川の中に設けられていた。上り下りが多少きついものの、谷底のほうが人目につかず、森に囲まれて気持ちがいいものね。ただしこちらも最近は人気がなくなったようで、自宅でシャワーを浴びるような生活様式に変化してきたらしい。

アユン川

ウブドゥの西側を流れるアユン川は、300km2の流域面積をもつバリ島最大の川である。とはいえその川幅は、中流部で数m、下流部でも20mか30m程度しかない、日本の感覚でいうと、どちらかといえば小川に属する。

バツール湖とブラタン湖というふたつのカルデラ湖をつなぐ馬の背にあたるカツール(Catur)あたりを水源として、南に一直線に下ってウブドゥの西を通り、途中でたくさんの支流を集め、下流では網の目のような派川にわかれながら、本川はサヌール近郊でインド洋に注いでいる。
ちなみに、Catuは「分ける」という意味なので、インド洋とジャワ海との分水嶺であるCaturはその語感を引き継いだ地名なのかもしれない。これは素人の推測ですが。

アユン川はこのふたつのカルデラから流れ出した火砕流の堆積物の境界を流れている。それで、その右岸と左岸とでは、微妙に標高が異なっているだけでなく、土壌の性質も違うのだそうだ。

アユン川の景勝

この小川であるアユン川も他聞にもれず急峻な渓谷を形づくっていて、ウブドゥ近辺での台地面からの標高差は50mを超える。

渓谷の眺めは絶景で、ウブドゥの初期の高級リゾートは、クプクプ・バロンあたりを嚆矢として、このアユン川の左岸台地の崖の上に立地した。
かつて30年代にコリン・マックフィが滞在したサヤン・テラスも、この並びの少し下流、フォーシーズンズ・リゾートに隣接した場所にある。いまも、1泊2千ドルなどという部屋を有するホテルが軒を連ねているのは、バリ島の中でもこのアユン川左岸のほかにないのではないか。

政府はこの景勝を保全するために、右岸側の開発を禁止しているという。けっこうなことであるが、それが結果的に高級ホテル資本の利権を保護している、ととらえるのはちょっと穿ちすぎか?

アユン川の東西連絡

この渓谷が、両側の地域をきっぱりと分けている。行政的にも、ギアニャール県とバドゥン県との境界となっている。

ウブドゥから東のゴア・ガジャを経由してギヤニャールに至る台地にも、大きなもので10数本の川が刻んだ谷がある。しかし、けっこう頻繁に橋がかかっていて、東西の移動にはそれほどストレスがかからない。
ところが、アユン川にはどういうわけかほとんど橋がかかっていない。渓谷とはいっても「小川」であるから、橋の1本や2本かけるのにそれほど困難があるとは思えないのに、である。

タバナンの山中の沢にかかる橋。
アユン川にはこの程度の橋さえかかっていない。

左岸側のクデワタン通りと右岸側のサラスワティ通りとは、アユン川を挟んでおおむね平行に走っていて、狭いところではお互いに500mほどの距離である。
ふたつの通りは、南のほうのスマナ通りにかかる橋で結ばれているが、はるか30数km上ったキンタマーニの近くまで行かないと再び連絡されることがない。そこまで、左岸側では35km、右岸側では実に62kmの道のりである。その間、人がやっと渡れるほどの橋さえないのである。これでは、アミダ籤もつくれない。

そんなわけで、たとえばその途中にある左岸側の高級リゾート「ハンギング・ガーデン」の下にある集落から、隣にあたる対岸バドゥンの集落に行こうとすると、最短で33kmを歩くか車で走るかしなくてはならない。信じがたいことに、直線距離は150mに満たないのである。

こういう状況では、規制などしなくても、右岸側の開発はやりようがないというのが実態ではないだろうか。政府もなかなかやるものだ、というのも穿ちすぎか?

西のほうに行ってみた

アユン川の東にあたるウブドゥ周辺の田舎は、このところさんざんうろついてみたので、西側はどうなっているのか、スマナ通りを通って潜入してみた。右岸側を遡ってみたのである。

地質的にも、土壌的にも東と違うというではないか。しかも、道路網が切れていて東西の交流は希薄そうである。ひょっとすると、これまでと異なる風景が見られるかもしれない。
以下、バイクで数時間走り回っただけの感想であるが、予想どおり、ずいぶん東側とは違うなと思ったので、こもごもに記録する。

観光客がいない

これが、一番の違いである。

左岸側では、はるか上流パヤンガンのさらに北のほうに行っても、あるいは左右の田園地帯に分け入っても、観光客の匂いが途切れることがない。ところがこっちは、スマナ通りをはずれると、もう外国人がいなくなる。

ほとんど観光資源というものがないのである。タマン・アユン寺院くらいがめぼしいものであって、それさえもスマナ通りでアユン川を越えて、さらにそのまま西南方向に11km行ったところにポツンとある古いお寺である。周辺にはめぼしいホテルもない。
そのほかに、この地域でなにかの観光情報が紹介されたということも聞いたことがない。
もっと西のタバナンまで行けば、たとえばタマン・アユンとともに世界文化遺産リストに登録されたジャティルウィの棚田などがあるけれども、もうウブドゥの観光圏域ではない。それに、タマン・アユンはともかく、ジャティルウィは観光バスで乗り付けて、棚田を見ながら食事して次に向かうといった類の観光ポイントなのである。

アユン川右岸の地域は、直線距離としてはウブドゥから至近で、トレッキングのお薦めコースがいくつかあってもよさそうだが、如何せん橋がないので、そのルートもつくれない。
まさか、一周97kmを歩かせるわけにもいかないだろう。バリ州が力を入れている集落観光にはうってつけなのだが、残念だ。

それで、当然ながら観光客というものが皆無なのである。
バイクのスピード・メーターもトリップ・メーターも動いていなかったので、いったいどのくらい走り回ったのかはわからないものの、ほぼ満タンで走りはじめて、途中で4リットル注いだので、それから計算すると100kmは下らないと思われるが、その間に遭遇した観光客と思しき人は、バイクですれ違った白人女性一人であった。

だから、ウブドゥ周辺の田舎とは、決定的に違う風景がある。ホテルとかヴィラとかカフェがないのである。お店は適当な間隔でたくさんあるけれども、いずれも住民向けのワルンである。

バンジャールの街並みが美しい

バンジャール集落内の街並みが整っていて、どことなく美しい。

観察してみると、まず、街路に面した樹木が大きく茂っていて、道に覆いかぶさる赤黄白の花々が目に気持ちよい。両側の水路脇もきれいに刈り込まれていて、清潔感がある。道路の縁石や舗装やレンガ塀などにツギハギ感がないことも、ほかとずいぶん違う。全体に手入れが行き届いているのである。

商売のためではなく、自分たちの身の回りを気持ちよくしよう、という力が働いているような印象を受けた。これが、いろいろなものが行き交ってエネルギッシュではあるが、どこかすさんでいるようにも見える東部市街地の街並みと大きく異なる点である。

かつて、ドイツの「わが村は美しい」運動の授賞式で、主催者側の偉い人が「この運動がこれまで花一杯運動にならなかったことを誇らしく思う」という趣旨の演説をしたというのが気に入って、ある年に金賞をとったという村をミュンヘン郊外に見に行ったことがある。
どことなくきれいなのだが、目を見張るようなところがどこにもないのに、逆に感銘を受けた。

「どことなく」というのは、難しいことではあるが、実は一番大切なことではないかと思った。素晴らしいことに、ここらあたりのバンジャールは、どことなく美しいのである。

田園風景がなつかしい

土の色がどうも違う。

ApiApiの周りの農地は、黒々とした肥え土に鴨が群れている水田という感じなのだが、こちらは乾いて硬い薄茶色の土で、見た目には耕運が大変そうである。
水田ではなく畑が優勢で、鴨は見かけずもっぱら白鷺のような鳥が集まって舞ったり降りたりしながら虫をついばんでいた。そのうえ、田畑の中に人が多い。あちこちに鍬をもった人々がいて、10数人が集まってランチしている姿も見られた。

ここからはるか西北に連なるジャティルウィも同じような土で、しかもこのあたりとは比較にならない、傾斜地の過酷な条件である。
そこでは、棚田に花卉やトマトやトウガラシなどさまざまな作物を植えて、大いに生産性をあげているように見えた。バツカル山山麓の旺盛な農業意欲がここまで流れ下って、アユン川右岸を覆っているという構図なのだろう。

もっと注目したのは、クブが残存していることだ。
かつてはウブドゥ周辺の農地には、特徴的で可愛らしいクブがあちこちに見られた。田圃のなかの2本の生きた木に棟木をしばりつけて簡単な小屋掛けをしたクブは、とても絵になる点景となっていて、ウブドゥの田園風景は、ひょっとしたら日本の昭和初期くらいの風景に似ているのではないか、とふと懐旧の気分に襲われたのは、このクブで一休みしている農夫を眺めているときであった。

そのクブが、気がつくといつの間にかほとんど消えてしまっている。残念なことだと思っていたが、こちらにはそれが残っていた。
ただし、かつてのウブドゥ周辺のように茅やバナナの葉で屋根を葺いた正統なものではなく、瓦葺きであったり、トタン屋根であったり、実用品として存在しているのだが、とりあえず残っている。思わずバイクを停めて見とれてしまった。

デ・ジャ・ブ

観光客がいないこと、バンジャールの家並みが整っていること、あの穏やかで微笑ましいクブが健在であること、などにつらつら思いをいたしていたら、かつて同じような感慨をもったことが思い出された。

はじめてバリに来た頃、ウブドゥの南、マス村の裏側あたりの集落を歩いていたときのことではなかったか。
街路上にシートを敷いてなにか穀類を乾かしていたり、そのそばで子供たちが座って遊んでいたり、庭先で石彫りに精を出しているおじさんがいたり(実は、わが家の門の前に据えてある1対のスンドピスンドの石像は、そのときにそのおじさんが彫っていたのを購入したものである)、といった状況のなかで、その静かでゆったりとしたたたずまいに、なぜかなつかしさで目頭が熱くなったのであった。

あの頃は、ウブドゥでもちょっと街をはずれるとそういう光景が見られたのである。いまはもう、モンキーフォレストの裏側のニュークニン村あたりの一角に、わずかに残影がみられるだけになってしまった。

そんな雰囲気が、形は少し違ったけれども西のほうにはまだしっかり残っていた、ということを発見したのは大きな収穫であった。勝手を言うようだが、だから、ウブドゥのトレッキング・コースをアユン川以西に広げようなどと考えるのは、あえて避けてもらえるとありがたい。

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