category name  »  page title date

ウブドゥの小道を行く

小道を歩いてみた

ウブドゥに行くのに、いつも通るメイン道路ではなく、小道を歩いてみることにした。
村の裏側は、いったいどうなっているのだろう。

昼前に出て、マンディ(沐浴)場となっている沢を渡り、対岸の田んぼを突っ切って・・・と思って歩き始めたのだが、これが意外にワイルドだった。

沢とはいっても切り立ったV字谷で、わずかな距離のうちに標高差は5~60mほどある。しかも、道はあるようでないようで、底のほうに申し訳程度の一枚板の橋がかかってはいるものの、苔むしてツルンツルン。まわりは藪というかジャングルというか、とても足を踏み入れるようなところではない。

マンディの時間でなかったのか、最近はもうこんなところでマンディをしなくなったのか、人っ子ひとりいなかった。

そういえば、この藪につづく密林にかつて3mもある大蛇が潜んでいた、と思い出して、ほんの4~500mの距離を進むのに、ずいぶん怖い思いをした。
道はどろどろで、踏み分けてできた道なのか、スコールの時の水流が道状の地形をつくったものなのか、よくわからないような有様である。

やっとここを抜けると、まわりにちらほらと人家のある、いい道に出た。
いい道とはいっても、あぜ道をコンクリートで舗装しただけの狭い道である。おかげで自動車ははいってこないのだが、かわりにバイクがひっきりなしに通る。

バイクの音がするたびに、脇によけなければならなかった。

幅員をはかってみると、1.1m、狭いところでは、90cm、もっとも狭い区間はなんと40cmであった。たいてい両脇に用水路がある。
  

ここを、二人乗り三人乗りのバイクが器用に走り、歩行者は水路に落ちないように爪先立ちしながらバイクをよける。
そうしていたら、女の人が上を指差しながらすっとんできた。

「ここは、上を見ながら歩かないと危ないよ」

見上げると、大きな椰子の木の下である。
椰子の実が落ちてくることがあるのだそうだ。水路に落ちるよりも、椰子の実の直撃を受けるほうが痛そうではある。

メイン通りへ

さらにあぜ道を通って、もうひとつ、より深いV字谷を渡るというルートを考えていたものの、ここで日和見をしてそのままメイン通りに出ることにした。

チャンプアンからウブドゥ大通りに出て、ウブドゥの街なかのワルンまで行き、そこで昼食をとる。


余談ながら、最近ウブドゥ大通りは両脇にあった排水路が暗渠となり、その上に歩道がついた。その歩道区間に、おそらくウブドゥではじめての点字プレートがとりつけられた。
と、言葉でいえばめでたいことなのだが、これがすさまじい。

まず、5mおきくらいにマンホールがあって、この上にもプレートがとりつけられているのだが、下地が十分でないうちに貼るものだから、すでに工事中から割れていたりはがれていたりする。危ない。
さらに、直進用のプレートが上り坂の崖に、わき目もふらずに突き当たっていたりする。これは、もっと危ない。

この区間ではないが、大通りの古い歩道のある区間では、マンホールのかわりに大きなグレーチングがはめこんである。
これが、どういうわけかひん曲がってめくれていたり、足がすっぽり入るくらいの穴があいていたり、もうすでにグレーチングそのものが失われていたり、ひとつとして正常なものが残っていない。
暗渠は深くて、覗き込むと中腰で歩けるほどの大きさなのだ。これも危なくてしようがない。

ただ、いたるところこういう状態だから、結局は健常者も目の悪い人も、そんなものだと思って注意して歩けばよいことであって、別段市民や観光客が怒っているという話も聞かない。
まあ、それはそれでよいのだろう。
ただ、そうだとしたら、歩道だ、グレーチングだ、点字プレートだ、などという装置を表面ヅラだけコピーして持ちこまないでほしい。バリ人には、もっとすばらしい発明ができるはずだ。


帰りはまた、気をとり直して小道に戻る。モンキーフォレスト通りから西に入って、行けるところまで行き、やはり深いV字谷は避け、途中でウブドゥ大通りに出て再びチャンプアンを抜ける。
ペネスタナンに入ってから、また小道に戻るものの、さすがにさっきのジャングルは抜けたくなかったので、別のルートを探してできるだけ人家のある道をたどった。

アスタのワルンにて

沢沿いの小高いところを縫う路地を歩いていたら、絵をたくさん飾ったワルンがあった。

「アピアピのマチュナミではないか、なんでこんなところを歩いているのか」
「あんた、だれ?」
「わたしはクトゥ・アスタといいます」

ここでアスタ氏につかまって、しばらく時間をつぶし、足の疲れを癒した。
絵を買えというでもなく、何か飲めというでもなく、身の上話を聞いてほしいというだけのようであったので、彼が描いたという日本風の龍の絵を拝見しながら、話を聞いた。

アスタ氏は、絵を日本のゴトウ先生に習ったこと、ゴトウ先生はすでに亡くなったが、生前はこの絵で染めた着物を買ってくれていたこと、自分には20歳になる長男と、18歳、15歳のふたりの娘がいること、これから学費が大変なこと、アピアピの近くに土地をもっているので、誰かほしい人か借りたい人がいたら紹介してもらいたいこと、などを縷々語った。
  

ワルンは、けっしてみすぼらしいものではなかった。
そういえば、ここまで来る途中でも、人家はまばらなのにたくさんのワルンがあった。カフェ風であったり、ヨロズや風であったり、両方であったりだが、いずれも、メイン通りに比べて遜色のないきちんとしたワルンである。

メイン通りからずいぶん奥まっているところにも、人家やヴィラやワルンがあって、しかもそれぞれのたたずまいがしっかりしている。これは、発見であった。

全体の行程は6kmちょっと

アスタ氏に別れて、すぐ近くのバドゥーンのワルンに寄って喉をうるおす。

このワルンは旧知のバドゥーン青年が最近開店したもので、地下の厨房はまだ工事中である。料理がおいしくて、比較的清潔なお店なので、このところ毎日の夕食をここでとっている。昨日は、厨房工事のためのブロック運びをちょっと手伝った。

バドゥーンの店からアピアピまでおよそ700m。あと何度かアップダウンを経なくてはいけないが、バイクで送ってあげるというのを断って、最後の踏ん張りと、徒歩でアピアピに凱旋帰還することにした。

本日の全行程を、帰ってから地図上で測ってみたら、およそ6kmちょっとであった。途中でうろうろしたことも勘定にいれて、仮に1.5倍したところで、10kmにもならない。

振り分け荷物を肩に乗せた近世江戸の旅人は、街道の一日行程が10里であったというから、そのわずか4分の一以下である。自分では大旅行をしたような気で、はずかしながら足もふらふらだったのだが、距離でいえばちょっとした散歩のようなものであった。

村の裏側はスプロール

村の裏側に、ずいぶん市街化の波が押し寄せているのに驚いた。工事中の建物も、たくさんあったのである。

それに引き換え、わが「小道」は、バイクの通行と椰子の実の直撃と水路への落下を心配しながら歩かねばならないという、きわめてプアなインフラであった。

こんなところに、こんなに家が建ってよいものなのか。日本の昭和40年代前後のいわゆる「市街地スプロール」の弊害が、おっつけ問題になるのではないか。

ティダ・アパ・アパ

と思って、どういう問題が考えられるのか悩んでみた。

まず、災害時の避難、救助活動、火災の延焼、工事用車両をはじめとした自動車交通の処理、などに問題があるのではないか。

と考えてみたが、ひょっとすると、これらは思ったほど深刻ではないかもしれない。
水災害・土砂災害の特性についてはよくわからないが、すくなくとも火災が大火になる危険性というのは少ないだろう。それぞれの敷地の建蔽率がきわめて低いうえに、ほぼすべてが耐火建築物であるからだ。どこかが出火したとしても、その家が燃えれば終息してしまう。

そういえば、一度お葬式の火の飛び火でお寺がボヤになるのを目撃したことがあるが、そのときを含めて、消防自動車が消化出動したのをウブドゥで見たことがない。

車の交通はたしかに不便だろうが、むしろ集落内に車をいれないのだ、と考えれば、別段死活問題というわけでもない。いっそ、バイクも禁止してほしい。
工事用車両にいたっては、いまのところメイン通りの沿道でも、運搬から掘削まで作業のほとんどを人手に依存していて、それがバリの文化の一面であると考えれば、少なくともわたしは許せる。

将来、環境衛生のために公共下水を導入しようとすれば、この道路状況はかなり不利に働くだろう。
ただ、逆にこの市街地密度にふさわしい集落排水や合併浄化槽の導入からはいって、のっけから分散処理ということを追求すれば、それはそれで世界に誇れる理想的な環境装置となるかもしれない。

ウブドゥの下水処理システムを計画する、というプロジェクトがあれば、ぜひ参加したいものだ。

(続)小道を行く

ところで、ウブドゥ中心地以外ではどういう状況なのか?

思い立って、今度は周辺部の小道をバイクで走ってみた。
こんな細い道でも、十分バイクで走れるのだということを、さきに見聞していたからである。
サヤンから、バツブラン、マス、プリアタンといった、ウブドゥをとりまく農村地域である。

車のひしめくメイン道路から、脇にはいるような路地をみつけては、奥のほうにどんどんはいってみた。
家並みを突き抜けると、見渡すかぎりそこは刈り入れの真っ最中の田んぼである。刈り取りの終わったところでは、アヒルの群れが虫取りと日向ぼっこに精を出していた。

その中を縫うように、細い糸のような一本道がくねくねと曲がりながら、どこまでもどこまでも続いている。
その道は、幅がやはり1mそこそこで、ところによると舗装もされていない。未舗装の部分では、バイクの轍が草の中に見えることだけが、ほかのあぜ道との違いを教えてくれる。

それが、上がったり下がったりしながら、メイン道路から数百m、あるいは1km以上もはいったところに、突然家があったりする。
掘っ立て小屋ではない。立派なお屋敷である。個人の住宅なのか、ライス・フィールド・ビューを売り物にした貸し別荘なのかはわからないが、かなりしっかりした作りの、場合によると3階建てとおぼしき家が、この道に張り付いている。
たまたまではない。走っている間に、何軒も何軒も目撃した。むしろ、粗末な家はないといってよい。いくつかを、写真に撮った。
恐るべきことに、写真に写っている手前の道が、それらのお屋敷の唯一の接道道路なのである。

これは、日本の感覚からみると、まことに凄まじい。

まず、これらの家を建てるときの様子を思うと、建設資材や、生コンクリートなどを、この道を使ってすべて人力で運んだに違いないのである。

それから、いまはこれですんでいるが、この細い道の沿道にまた一軒また一軒と同じような建物が連続して建っていったらどうなるのだろう。
それを想像すると、地獄絵なのか極楽図なのか、あるいはそうならないような仕掛けがどこかにあるのか、今後も注目していようと思う。

inserted by FC2 system