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政変

1998年5月

1998年5月、経済危機に端を発して学生たちを中心にスハルト退陣の声がわき起こり、ジャワ島やスマトラ島の都市部で、暴動が頻発していた。
もともと、スハルト大統領(当時)の言う「家族主義経済」の「家族」が彼自身の一族の意であるということは、傍目に見ても明らかだった。国民もそれぞれそう理解している風だったから、この大変革を求める嵐は、来るべきものが来たという感じで、大して驚きはしなかった。むしろ、目覚めるときには目覚めるのだなと、何となくほっとした気分で眺めていた。

ところが、6日に北スマトラ州のメダンで6人が死亡し、さらに12日にはとうとうジャカルタのトリサクティ大学構内で治安部隊が実弾を発砲して、学生6人が死亡するという事態に発展した。それからの3日間で、暴動による死者は500人となる(後に国家人権委員会は一連の暴動による死者はジャカルタだけで1,188人と発表した)。
外務省の発令する海外危険情報による危険度も日増しに上がり、とうとう17日には危険度4の「家族等退避勧告」まで出され、救援用の自衛隊機や巡視船が派遣される、臨時便や政府のチャーター便で緊急帰国した人たちが成田空港に溢れる、ジャカルタでは腹心だったはずのハルモコ議長が大統領の退陣を求める声明を発表する、と騒然たる雰囲気になってきた。

新聞には、緊急帰国した人たちの
「銃声が聞こえた」
「あちこちに黒い煙が見えた」
「高速道路にはほとんど車の姿はなく、少し走るたびに暴徒に止められた」
などという恐怖のコメントが紹介される。
「民族覚醒の日」という20日には、全国で200万人規模の集会が予定され、軍も身構えている、スハルト大統領は強気で「辞めない」と言っている、さてどうなるのか、と世界中の目がインドネシアに集まっていた。

その時バリは

こうなると、ほっとした気分どころではない。バリ島といえども穏やかであるはずがない。ひょっとしたら、山裾を戦車くらい走り回っているかもしれない。デンパサール市内の華人経営のショッピングセンターの周りなどでは、相当不穏な空気になっているだろう。

そこで、19日にマデに電話をいれた。
「おい、どうだ?」
私の声は少し緊迫していたと思う。マデは逆にそれに驚いて、こう答えた。
「えっ? 何かあったの?」
この一言で、私はバリの情勢をすっかり理解すると同時に拍子抜けしてしまった。

後で聞いたところでは、さすがに20日の日は休業したショッピングセンターも一部あったらしいが、簡単に言うと、この政変を通じてバリ島では別段何事も起こらなかったらしい。
20日にも、どこかの村ではガムランが聞こえていたというし、19日には、あいかわらずいろんな村でいつものようにお寺の祭(オダラン)をやっていた、という話しも聞いた。せっかくのオダランなのに、外国人が少なくて淋しかった、などという声もあったらしい。
マデは、電話の最初の受け答えに続けて、こんな言い訳をした。
「だって、あれはジャワのことでしょ?」
彼らは、世界中の目が集まっていたなどと、夢にも思わなかったに違いない。統治レベルの政治の情勢と、民衆の生活レベルの政治のそれとは、もともと世界が違うのだ。バリ島の民衆諸君は、この政変をティダ・アパアパでやり過ごした。

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