category name  »  page title date

ティダ・アパアパ

ティダ・アパアパ

バリ人の性格描写として「ティダ・アパアパ」ほど正鵠を射る言葉はない。日本語で言うと「たいしたことはない」「大丈夫、大丈夫」というような意味であるが、これに、「ケ・セラ・セラ」というような味わいも少し混じる。

「ごめんなさい」「ティダ・アパアパ」
「これはやばいんじゃないの?」「ティダ・アパアパ」

といったような使い方である。
この「ティダ・アパアパ」の心根は、バリ島の楽園性を維持するうえで重要な要素でもあるのだが、思わぬ文化摩擦の種ともなる。

P氏の場合

P氏は、ウブドゥの近くの聖地タンパクシリン出身の好青年である。これから書くことはいささか彼の名誉を毀損する話しなので、P氏とする。
タンパクシリンを出てウブドゥの町にやってきたP氏は、はじめロスメン(簡易ホテル)で働いていた。この頃、彼自身の所有物はボールペン1本とシャツ1枚だけだったという。そこでしっかり働いて認められてから、私のよく使うホテルのフロントに移った。超高級とはいかないが、外国人専用のそれなりに高級なホテルである。私はその時に知り合ったのだが、日本語が達者な彼はもうすでにエリートの顔つきで、いつもノリの効いたシャツを着て、こざっぱりした身なりをしていた。目を輝かせながら、自分はこの日本語の能力を活かして、いずれは商社のような仕事をしたいとしきりに言っていた。
そのP氏が数年前、ついに独立して日本人向けの旅行会社をはじめた。スポンサーがついたのである。結婚を約束した日本人女性B嬢がお金を出してあげたらしい。P氏はそれ以後、B嬢から何だかんだとお金を引き出して、事務所をいくつも構え、人を何人も雇い入れて事業を拡張し、ビジネスに励んだ。このまま行けば、立志伝中の人物となるはずであった。
ところが、経営を全うする冷徹さが、彼にはいささか欠けていた。事情通にいわせると、お客からの売上金が適切な支払先に行かないで、周囲のお金に困っている友人や従業員のところに"じゃぶじゃぶ"流れてしまうのだそうだ。従って、仕事が増えれば増えるほど、ホテルやレストランやバス会社への未払金が溜ってしまう。それでまたB嬢からお金を引き出す。しばらくしてこの仕組みに気が付いたB嬢は、やっと目が覚めて婚約を破棄し、弁護士を立ててP氏を訴える挙に出た。P氏は困って逃げ回っている。
以上は、周囲の観察者の解説である。

P氏がお金持ちになって、バランス感覚を失ったことはよくわかる。しかし、彼の性格を考えると、だます気などなかったろうとも思う。
バランスを崩しつつ、一方でP氏の本能的な確信としてゆるがなかったのは、おそらく「お金は持っている人から持っていない人に流れるものだ」という感覚だろう。その感覚は、多かれ少なかれ、バリの人たちみんなが一様に持っているように見える。彼らにとって、その反対の流れも、流れに伴う代償もありえないのだ。
P氏は、自分が持てる身になったことを実感し、無意識のうちにこの本能に忠実であろうとし、その結果として誠実なビジネスマンになることができなかった。
彼がこの罠にはまって、これからどう身を処していくのかはわからない。ひとつだけ言えることは、おそらく日本ではそれほど巨額ともいえない金額のお金が、いきなり一人の好青年を金持ちにし、その金銭感覚を麻痺させて、有為な前途を潰してしまったかもしれない、ということである。

ウブドゥの噂雀がP氏とB嬢のことを盛んにさえずりあっていた頃、ある晩P氏本人がふらっと我が家に姿を見せた。
思わず私は何も知らないふりをして、こう挨拶した。
「よう、どしたい。仕事は順調かい?」
「仕事は順調なんですが、今、彼女とトラブルで大変。でも、人生浮いたり沈んだりがあるから楽しいね。今は沈んでいるけど、もうすぐ浮かぶと思います」
この時彼は、まさに「ティダ・アパアパ」と表現した。ちっとも懲りていないのである。まるで、自然現象で降りかかってきたスコールが、早く去ってくれるのをじっと待っているような口振りだった。
両人に幸あれかし、としか言えない。

inserted by FC2 system