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飛行機のあれこれ

日本からバリに行くのには、飛行機に乗らなくてはならない。
    
飛行機がきらいというわけではないが、どうせなら船で行ってみたいと思って、ちらっと検討したことがある。ちょうど小型船舶の1級免許をとった頃で、勢いにまかせて小型クルーザーで乗り込もうか、などという無謀な構想をもった。
どんなルートで行けばよいのか、どのくらい日にちがかかるのか、沖縄から広島まで小型観光船を回航したことがあるという友人に聞くと、それはそれは怖い話を披露してくれた。
東シナ海で台風の三角波に乗り上げ、波の上で20トンの船体がクルクル回って死ぬかと思ったそうである。それから、日本の領海はまだしも、バリに行くとなるとフィリピンやカリマンタン近海で海賊に襲われる危険性がある。襲われると、身ぐるみはがれて船ごと沈められるから見つからない。だから、できれば大きく迂回してグアム経由で行ったほうがよい。そうすると、彼が出会ったよりもはるかに大きな三角波に出会うだろう、といったようなこと。

それで、バリにはいつも飛行機で行く。

かつては福岡からデンパサールまでガルーダ・インドネシア航空の直行便があった。便利だったし、ちょくちょく利用するものだからガルーダの福岡支店の人と懇意になって、電話一本でチケットを用意しておいてくれるなどという気楽さもあったので、もっぱらそれを利用していた。
その後、福岡空港でガルーダが着陸事故を起こしてから、その便がなくなってしまった。それ以来、広島から上海経由とかシンガポール経由とか、福岡や関西空港からバンコク、台北、クアラルンプール、ジャカルタなどを経由する便、たまに関西空港あるいは成田空港からの直行便など、目新しいルートを選んではあちこちと乗ってみた。

そのおかげで、飛行機に関してはいろいろな経験をさせてもらった。なかには、ちょっとヨーロッパ便や北米便では考えられないような、アジア的というか“ティダ・アパアパ”な経験もある。そのいくつかを、ここに記録する。

「You are ....... Lucky!」

アピアピの建設途中。明日は早朝7時かなにかの便で帰らないといけない、というので、念のためにマデとふたりでチャハヤ・デワタ・ホテルに部屋をとった。
空港まではかれこれ40分ほどなので、5時に出れば間に合う。「明日は早起きしよう」「大丈夫!」と就寝したのだが、はっと目が覚めるとすでに6時を過ぎていた。
それからは、寝ぼけ眼のマデとともにどたばたである。マデはまだ車の運転が初心者だったので、空港まで飛ばす自信がなく、咄嗟の判断でホテルの息子のダルタをたたき起こし、彼に運転してもらって3人で空港に突進した。

着いたときは、すでに定刻を5分か10分過ぎていたと思う。

いまと比べると空港ビルも小さく、便数もそれほど多くない時代だった。福岡便が飛び立ったと思しき後、もう人もまばらで閑散としていたところへ乗りつけ、せっかくここまで来たのだからと荷物を担いでカウンターに走った。
カウンターにもすでに人はいない。
「お~い、お~い」と呼ぶと、奥から出てきたのは恰幅のよい中年の職員。ゆっくりと顔を見せたが、目はまん丸に見開いて驚いている。チケットを見せると、それは見ないでわたしの顔を注視し、こちらを指差しながら一呼吸おいて発した言葉は「You are ...... Lucky!」。

すでに残りの乗客全員の搭乗がすんでいたのだが、何かの事情で飛行機の出発が遅れ、まだボーディング・ゲートが閉まっていなかったのである。
はやく、はやくと急かされて搭乗口に向かった。途中で人に会うこともなく、イミグレーションも荷物検査もほとんどフリーパス。無事搭乗して席につくと、何事もなかったようにハッチが閉まって機体が動き始めた・・・・・という経験である。

思い出すと、その朝の顛末はまるでVIPになったような扱いで、不謹慎ではあるがちょっと気分がよかった。ダルタには、それ以来借りがある。

「マチュナミ、マチュナミ!」

間際に滑り込んだ経験が、もうひとつある。

1993年4月29日。ウダヤナ大学のアルディ先生にアピアピのプランの相談に乗ってもらうため、デンパサールからジョグジャカルタに日帰りで行ったときのこと。

行きの便。
その日のガルーダの国内線は、時刻が大変正確だった。定刻8:15のところ、8:15きっかりに車止めをはずした。これは、何かで読んだ定期便航空機の出発時刻の定義、そのとおりである。
従って、乗客は8:00には搭乗していなければならないことになり、その時刻にトイレにいたら、場内アナウンスで呼び出しを食らった。定員107名のDC9に6割方の乗客のうち、乗り込んだのが最後で、遅刻したわけでもないのに、やや肩身が狭かった。
ジョグジャの空港に到着するのも、8:25着が2分とちがわなかった(時差が1時間あるため、飛行時間は1時間10分)。

帰りの便。
空港で夕食をとり、食後のコーヒーをすすってほっとしているところへ、アルディ先生が見送りにきてくれた。帰りの便は20:00発のところを、空港には18時前に着いてしまったので、たっぷり時間がある。
往きの経験から19:40にはゲートにと思っていたら、19:30になって係員が私を探しにレストランにやってきて、「こんなところにいたか」という調子で、まるで首根っこをつかみかねない勢いでゲートに追い立てられた。先生に別れを告げて、真っ暗な滑走路の上を、あれがデンパサール行だと示された飛行機に向かって走って行くと、タラップの下に待っていた係の人数人が皆で

「オオ、マチュナミ、マチュナミ」

といって盛大に迎えてくれた。
出発は定刻よりも15分も早い19:45。帰りの便の運行時刻はそれほど正確ではない。結局、往きも帰りも、DC9に乗り込んだのは、私が最後になってしまった。

これも、思い起こすとまるでVIPになったような気分である。

ダブル・ブッキング

ついでに、間際にチェックインしたときの別の幸せな体験。

ときどき、ダブル・ブッキングに出会うことがあった。なんでそうなるのかはわからないが、ちょっと遅めにカウンターに行くと、ときたま「申し訳ありません。ダブル・ブッキングで席がありません」と言われる。
こっちは慣れっこになっているので、ああ、またか、でも何とかなるだろうと慌てもしないのだが、はじめての人はパニクってしまう。青筋を立てて大声で抗議している人を何度か見かけた。

何とかなるというのは、別便をあてがわれる、それが翌日の便ならホテルも用意してくれるとか、なにせあちらの落ち度だから至れり尽くせりなのである。
実は、ダブル・ブッキングのせいで、こちらが頼みもしないのにビジネス・クラスに席替えしてもらった経験が2度ある。

自慢ではないが、プライベイトな旅では、当然ながらエコノミー・クラス以外を利用したことがない。それがある日空港に行くと「申し訳ありませんが席がありません。それでビジネス・クラスをご用意しましたが、よろしいでしょうか」となる。よろしくないわけがない。「I am Lucky!」である。

乗ってしまえば、こちらが席替え組だということも、それもエコノミーの格安航空券からの席替えだということも、乗務員にはわからない(はずだと思う)。ゆっくり眠れて、機内でお土産までもらって、まさに「ウハウハ」の旅である。
一度はわたし一人のとき。もう一度は家族4人で日本に帰るときであった。
家族のときには、自分の甲斐性でないにもかかわらず、なんとなく誇らしい気持ちになったものだ。嘉門達夫に「小市民」と揶揄されるような喜びではある。

しばらく、この幸運を狙って、できるだけ間際にチェックインするようにしてみたのだが、意識的にそうしたところで、その後残念ながらリスクに見合うような成果をあげることはなかった。
いまは、まじめに搭乗時刻の1時間以上前には空港に着くようにしている。
というよりも、かつてと比べて航空便の予約システムが格段に進歩したのだろう、ダブル・ブッキングそのものにも遭遇することがなくなった。

システムの精緻化は、世の中をおもしろくなくするものだ。

出入国検査および荷物検査のトラブル

出入国手続きの際のごたごたの経験は、山ほどある。

あるとき、アピアピの柱にシロアリがついたというので、メンバーの建築家である秋本君に相談し、“キシラデコール”という防虫塗料を大枚はたいて一缶買い求め、積載荷物にいれて福岡空港のカウンターに預けた。
どうやってその存在が知れたのか忘れたが、それをとにかくガルーダが認識してしまった。

「こりゃダメですよ。石油○種○類と書いてあるもの。揮発性があるから、危険品扱いですよ」
「どうしてもダメかなあ。これを塗らないとアピアピが崩壊しかねないんだけど。バリでは入手できそうにないし」
「機長がいいといえば載せられるけど。聞いてみようか?」
「うん、聞いてみて」

わざわざ確認してくれたのだが、どうも一蹴されたようである。
帰ってくるまで預かっていようか、とも彼は言ってくれたのだが、これはアピアピに塗ってはじめて用を足すので、預かってもらっても意味がない。
そこのところを見透かしたのか、

「この防虫剤、ちょうど欲しがっている職員がいるんだけど、あげてもいい?」

というわけで、譲ってしまった。
いまもあの塗料は九州のどこかで防虫の任を果たしているはずだ。
アピアピはといえば、食われたらその柱を取り替えるという大変しなやかな方法で、なんとか生きながらえている。

あるとき、搭乗前の手荷物検査でパイプ煙草のコンパニオンが見つかってしまった。折りたたみの小さなカッターがついているために少し心配はしていたのだが、駄々をこねてみた。

「20年以上愛用したコンパニオンである(本当は5年程度)。これまで、何十回となく手荷物として飛行機に乗せてもらった。これがないと乗り継ぎの空港でパイプが吸えない。現地に着いたあとも、欧米はともかく、アジアではパイプ道具が入手できない。あなたは煙草をやめろと言っているのか」
「そう言われましても、刃物ですから」
「これが刃物かどうか、切れるものなら、ちょっと指を切ってみてほしい」
「それは、できません」
「じゃあ、わたしの指を切ってみるね。これ、このとおり、どうやっても切れない」
「しかし、見た目が刃物の形をしているので・・・」

といったようなやりとりがあって、

「それでは、あなた、わたしが帰国するまでこれを預かっておいてください」
「それもできない決まりになっていますので」
「それでは、いまわたしにどんな選択肢があるのか」
「確認したところ、荷物の搭載が終わっていますので、“任意廃棄”していただく以外にありません」
「“任意廃棄”! しないとどうなるの?」
「(知れたこと)飛行機に乗れません。もう出発時刻が迫っていますので」

こういう時間つぶしをやった後、わたしは“任意廃棄”を行う前に記念写真を撮って、その場を後にした。写真撮影にあたって、当の係員は親切にコンパニオンを手に持って協力してくれたのである。
係員には迷惑をかけたが、極力紳士的な応酬を心がけたので、悪い後味は残っていないと思う。と、能天気な感想を書けるのは、あのコンパニオンが愛用品とはいえ1000円そこそこのものだったからである。あれが、ダイヤモンドをちりばめた超豪華なコンパニオンだったら、と思うとゾッとする。まあ、わたしにそんなものを持つ趣味はないけれど。

いずれにしても、手荷物には気をつけましょう。とくに搭乗時刻が迫っているときには、“任意廃棄”しか選択肢がありません。

あるとき、アピアピに100Vのコンセントをつけようと思って、定電圧電源を持ち込もうとした。ちょっと目には、なにかわけのわからない四角い金属の箱に、端子とメーターがいくつかついていて、不審な機器である。
これが、入国時の税関の検査官の目にとまってしまった。

「これは何か」
「(ううむ、どう説明してよいのか)・・・あのね、電気の220Vを100Vに・・・」
「???」
「(ううむ)・・・」
「ああ、これはダメですねえ。ダメだよ、これは。没収だよ」

と言っているところに、ラーマが現れた。迎えにきて遠くから見ていたが、様子がおかしいので心配してかけつけたとのこと。彼は係官になにか耳打ちし、なにかを持った手で握手した。それでOK。
ラーマが言うには、トラブっているのがわかると他の係官が群がってきて、みんなで「ダメだ、ダメだ」となるのだそうだ。そうなってしまうと、人数分の経費がかかってしまうので、ひとりのうちに処理しないといけないとのこと。

なるほど、いろいろと知らないノウハウがあるものだ。

こういうケースにはよく出くわす。

たとえば、あるとき出国しようとしたら荷物が重量オーバーだった。
あそこへ行って料金を支払うようにと言われた窓口で、クレジットカードで払おうとしたら、「クレジットカードだと正規の100ドル。現金で払うのなら50ドルにしてあげる」と言われた。なんだ、それは!
どちらで支払ったかは忘れたが、このことをラーマに言うと、「そりゃそうだよ。クレジットカードだと証拠が残るもん」という答え。

なるほど、いろいろと知らない事情がある。

さらにあるとき、出国しようとしたら一緒に行った友人が出国カードを紛失していた。
入国したときにスタンプを押してわたされるもので、これがないと出国検査が通らない。
友人はそのまま係官に拉致されて、脇の事務室にはいったきり、いくら待っても出てくる気配がない。
搭乗時刻が近づいてきたので、やむにやまれず事務室のドアをあけて中に闖入してみた。

室内は静寂で、とくに詰問したり言い争ったりしている風はない。さっきとは別の係官が机の向こうに座っていて、この人はどちらかというと困惑した顔をしている。友人はといえば、机のこちらの椅子に座らされて首をうなだれたままだ。
わたしは無言で自分のポケットの中にあったルピアの高額紙幣を何枚か手のひらにつかみ、その手で当の係官に握手を求めた。ラーマの真似である。
そのとたん、係官は表情をくずして「やっと常識のある奴が現れた」と言わんばかりに、にこやかに握手を返すと、友人に向かって首を上下にふり「もう、いいよ」というサインを送った。
これでおしまい。

あのときは、事情を知っていてよかった。

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