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噴火と空港

とうとう噴火

2017年11月22日の朝、いつものように四阿(あずまや)の下でマデの作ってくれた朝食をとっていたら、エルニー氏が目を丸くしてやってきて、大げさな手振りで
       「噴火した」
と告げた。

エルニー氏は隣のゲストハウスに住んでいるアメリカ人で、数日前にわたしが到着するとすぐ、アグン山がいつ噴火してもおかしくないこと、噴火するとウブドゥにも灰が降ってくることを教えてくれて、わざわざその時のためのマスクをくれた人である。
「わたしも日本からマスクを持ってきている」と言って丁重にお断りしようとしたのだが、「これはベスト・クオリティのマスクだから」と無理に押し付けられた。その写真を日本にいる友人に見せたら「3Mだね。ミドリ十字が取り扱っているかな。確かに良い!」とコメントをくれたので、エルニー氏には感謝しなくてはいけない。

この朝の彼の解説では、風が東に吹いているから灰はロンボクに行く、雨季なので雨で下に落ちる、したがって、ウブドゥや空港には当面影響がない、ということであった。

アグン山

インドネシアの島々には、130とも140以上ともいわれる活火山があって、太平洋を取り囲む「炎の輪」といわれる火山帯の一部を構成している。
このうちバリ島には最近3万年間に大規模噴火を繰り返したふたつのカルデラ火山バツール山、ブラタン山と、活火山のアグン山がある。
アグン山は「19世紀以降で少なくとも3回、多分4回の噴火を起こした」とされている。

アグン山は島の最高峰で、その標高は公式には3,014メートル(インドネシア火山地質災害対策局)とされているが、3,142メートル(地質局)というデータをはじめ、3,013、3,031、3,100、3,314など諸説あるようだ。採用している数値はメディアによってまちまちである。「多分3,000メートルちょい」というのが妥当なところであろう。
バリ・ヒンドゥーの聖なる山として崇拝の対象となっており、山麓にその総本山のブサキ寺院がある。

地図上で測ると、山頂火口まで直線でブサキ寺院から7.2キロ、ウブドゥから33キロ、サヌールから47キロ、クタから56キロ、空港から58キロ、ジンバランから62キロの距離である。
この距離にも諸説ある。バリ州観光局が9月27日に観光客に向けて「主な観光地は火口から遠いから安心するように」と発した“Official Statement”では、ウブドゥは51キロ、サヌールやクタ、ジンバランは72キロ以上、としている。主な観光地から「多分数十キロ以上」というのが正しそうである。

ところで、なぜこれほどのサバが読めるのか不思議に思って調べると、ウブドゥから51キロというのはなんと直線距離ではなく、道路の走行距離であった。ホテルや旅行会社など観光関係の「お知らせ」はすべてこの調子である。
火山灰や火山弾がバスで来るわけはないから、危険度は直線距離で評価しなくてはいけない。警戒区域の範囲を9キロだ12キロだと直線距離でいいながら、観光地への距離は走行距離でいうのは、詐欺のようなものである。

The 1963-1964 eruption of Agung volcano (Bali, Indonesia) 
Stephen Self, Michael R. Rampino
 (SPRINGER NATURE)から


アグン山は、最近では1963年3月12日または18日から翌年1月27日まで噴火し、さらにその後2年間泥流による災害が続いている。噴出した熔岩、火砕流、火山灰、火山砂礫は総計で3億立方メートル、およそ10億トン、北半球の平均気温を0.5℃近く低下させて世界規模の気候変動をおこしたという。大噴火である。

この大噴火による犠牲は、インドネシア火山地質災害対策局によると死亡者1,148名、負傷者296名であった。これにも諸説あって、死亡者数「1,000人以上」から「1,600人近く」、「直接被害による死者1,022名、泥流168名」、「2,000人弱」といったいろいろな数字がある。「おおむね1,000~2,000人が亡くなった」というところであろう。

噴火の経緯

このアグン山が9月から54年ぶりに危険モードにはいっていて、そのことはわたしも知っている。だからマスクも持ってきた。メディアの記事などから時系列で整理すると、11月21日の噴火までに次のような経過をたどっていた。

11月24日サヌールの海岸から。かすかに噴煙が見える

8月以降、火山性地震が増加

9/14、インドネシア火山地質災害対策局(PVMBG)は噴火警戒レベルを1(通常)から2(注意)に引き上げ

9/18、同3(警戒)に引き上げ。レンダン郡の観測所で18~19の24時間に火山性地震366回を観測

9/20、PVMBGは登山客らに対し、火口から半径6キロ以内、標高950メートル地点へ入山しないよう勧告。さらに火口から北、南東、南~南西側各7.5キロの住民に避難を勧告

9/22、警戒レベルを最高の4(危険)に引き上げ。山頂から9キロ圏内のほか,北,北東,南東,南から南西部は12キロ圏内の区域への立ち入りを禁止。区域内からの避難を引き続き実施

9/23、午後6時までに472回の地震を観測

9/24、アグン山火口付近から高さ200メートルの白煙の放出がはじまる。マグマが上昇し、山頂付近の水分を加熱させていることを示している(PVMBG)

9/25、火山性地震547回を観測

9/27、高さ50メートルの白煙

9/30、二人のマンクさん(ヒンドゥー教の僧侶)が山頂まで登り、火口から立ち上る蒸気の様子を撮影して配信。映像で見る限りまったくの平服。すごい!

10/14、360回の地震を観測

10/29、火山性地震の回数が減少。16時、警戒レベルを3(警戒)に引き下げ、立ち入り禁止区域を半径6~7.5キロ圏内に縮小

この後、ほぼ1か月の小康状態を経た後、1回目の噴火に至ったというわけである。その後の経過は次のとおり。

11/21、17:05、高さ700メートルの濃い灰色の噴煙。水蒸気爆発であり、爆発的噴火にはいたっていない(国家防災対策庁:BNPB)

11/25、17:30、2回目の噴火。灰色の噴煙が1,500メートル、ふもとの村に少量の火山灰の降灰あり(PVMBG)。マグマや火山弾の吐出は未確認。在デンパサール日本国総領事館は何回目かの関連情報を出して、「万一、何らかの被害に遭った、または被害に遭った方を認知した場合にはご連絡ください」。23時からマグマ噴火に移行

11/26、前夜から複数の噴火。噴煙が時速18キロの速度で南東に向かい、火口からの高さ3~4,000メートルに達する(BNPB)。深夜の噴火では噴煙が7,600メートルに(地元災害対策局)。午前6時、BNPBは「噴火の光が夜に観測されるのがより頻繁になっているのは、さらに大規模な噴火が起きる可能性があるのを示している」として警戒レベルを最高の4に引き上げ、避難区域を半径10キロ圏に拡大。夜、本格的な噴火が観測される。マグマの噴出のような赤い光も

11/27、早朝、火口から3,400メートルの高さに黒煙。ロンボク島の町マタラムで火山灰を含む降雨。山頂から12キロ地点で時折弱い爆発音が聞こえており、夜間には炎が見え、いつ噴火が起きてもおかしくない(PVMBG)

11/28、火山灰の厚い雲が生じており、夜間には真っ赤に熱された溶岩から火が上がる様子が見える、火山泥流が山肌を流れるのが見える(BNPB)。灰色の煙が山頂より海抜6,000m以上まで上がっており、西南西方面に流れている(PVMBG)。クブ村、ドゥク地区では拳ほどの大きさで温度500℃の石が降ったという情報あり

11/29、時事通信の取材に豪アデレード大学のマーク・ティンゲイ氏は「既に次のより激しい段階に移っている。粘性の溶岩がガスを閉じ込め、圧力が蓄積されて爆発へとつながる恐れがある」

11/30、早朝、山頂から灰色の噴煙が2,000メートルの高さまであがり、南東方面に流れている。夜間、火口からマグマによる火花が見えた(PVMBG)

12/8、07:59、小規模な爆発、白い噴煙が2,100メートル

12/9、白い噴煙が1~2,000メートル

12/12、白い噴煙が2,500メートル

住民の避難

アグン山噴火のハザードマップ(BNPB)
を加工

その間、14万人ともいわれる住民が、クルンクンやギアニャールやサヌールなどに設けられたキャンプに避難したり、いつまでも噴火しないのでしびれを切らして帰還したり、警戒レベルが上がって再度避難したりと混乱をきわめていた。自主避難をした人もたくさんいたらしい。

政府が避難区域に指定した地域の居住人口を上回る人数がキャンプに押し寄せて、支援物資の供給に障害が出かねないと困惑するいっぽうで、勧告しても頑として避難しない人たちに警察を動員して強制避難させると脅したりと、こちらも右往左往している。

噴火警戒レベルが、4から3に、再び4にと変化するなか、村の人たちの気持ちも楽観論と不安とが交錯して避難したり戻ったりを繰り返しているようだ。それが3か月も続いている。

9月下旬段階での郵便保健省のデータによると、避難者のうち子ども12,823人、妊婦600人、高齢者6,994人、障害者60人、とのこと。支援物資は、これらの子どもや女性用のものが不足しているようだ。支援団体である KOPERNIK OFFICE のサイトには Latest List Of Priority Items というリストがあり、保管のきく果物、石鹸、ハエ取り紙、蚊取り線香、蚊帳などに並んで、ベビーパウダー、幼児用石鹸・シャンプー、幼児用毛布・帽子といったものが掲げられている。

避難者の数が発表主体や報道によってまちまちであるのも、その混乱ぶりをよく表している。

避難者数の推移

9/22、警戒レベルが4になったときまでに、住民17,000人が避難。うち、9,400人が自主避難

9/24、34,000人

9/25、57,428人、9地区の357カ所の避難所に避難(BNPB)

9/26、75,000人、あるいは80,000人超(BNPB)。自主避難を含めると130,000人超

9/28、122,490人が500カ所近くの避難所や親戚の家などに(クルンクン県避難センター関係者)。家畜のえさやりに住民が戻ることを防ぐため、1,300頭超の牛を搬出。危険区域の避難前の居住人口は約62,000人、避難者は13万人超(BNPB)

9/29、133,400人、あるいは136,000人、あるいは143,000人(BNPB)、あるいは144,000人(バリ州政府)。避難所385カ所

9月末、ほぼ全住民に帰宅勧告。すでに牛10,000頭を搬出したがまだ20,000頭が残置という報道

10/31、帰宅開始。47,700人は依然避難対象

11/21、1回目噴火時、すでに140,000人以上が避難という報道があったが、疑わしい

11/27、地元住民にマスクを配布。被害予想区域内の人口は100,000人、うち推定40,000人がすでに避難(BNPB)。このときの避難数については、「24,000人が避難した」から「今も25,000人が避難を続けている」「当局が住民約10万人を避難させた」まで、いろいろな報道

11/28、犠牲者を出さないためにも早急に住民を危険区域から退避させる必要があり、従わない場合は「警察を動員し強制的に避難させる」(ルフット海事調整相)

11/30、危険区域に推定で46,000人の住民が依然とどまっている(BNPB)

12/11、依然として70,000人が避難生活

ブサキ村からの報告

11月21午後、シンガパドゥ通りをバイクで走っていたら、後ろからサイレンを鳴らしながらジープが追いかけてきた。本能的に脇に寄って車を止めると、そのジープに先導された何台ものトラックが隊列をなして、他の車をかきわけながら猛スピードで走っていった。いずれもナンバープレートに金色の星をつけて、荷台には制服を着た兵隊さんが大勢乗っていた。

第1回目の噴火が起こる何時間か前である。その時はなんのことかわからなかったのだが、思えばアグン山の情勢に無関係ではなかったはずだ。

23日、朝から小手調べに北の方に行ってみた。ジュンジュンガン方面に北上して、テガラランからアンドンを経てウブドゥに戻るというコースである。
曇り空に途中からスコールという天候で、アグン山は見えなかったものの、多少おっかなびっくりではあったのだが、会う人会う人みんな快活で、噴火のことなどまったく意識にないという様子に、少し気が抜ける思いであった。

25日は、少し遠出をしようと考えて思い切り北に行ってみることにした。ただし、アグン山には近づかないよう、アユン川を越えて一度西に行き、そこからブラタン山の斜面を登る。
プラガ村の近くになんとか滝という景勝地があるというので、よくはわからないがそこを目指すことにした。

行き着く前に、山の中で猛烈なスコールが襲ってきた。
こちらはTシャツに短パンという軽装で、付近に雨宿りできる建物もない。寒さを防ぐ新聞紙もないし、たたきつけるような雨しぶきでスマホのナビ画面も見えない。
バリで凍死なんて洒落にもならないと、歯を食いしばってなんとか生還した。
おかげで滝の名前も失念してしまったのであるが、この日の走行距離はちょうど100キロ。
この日の夕方、ついに2回目の噴火が始まったのであった。

前日の遠出で半ばやけくその元気がでたというべきか、翌26日、とうとうアグン山を目指すことにした。前夜以来何度かの噴火を経て、いまやもくもくと黒い煙を噴いているはずなのである。こういう時にせっかくバリにいるのだから、その姿をこの目で見ておきたい。

ウブドゥから一路北上してキンタマーニに向かい、そこから東に行ってブサキに至る、というルートを行くことにした。警戒区域の西縁をたどることになる。

キンタマーニを過ぎて、バトゥール湖をはるか下に見下ろしながら外輪山の尾根筋を走っていると、道端で待ち伏せしている2人組みのご婦人に遭遇した。
当方を止めて、いきなりチャナンサリ(椰子の葉に乗せたお供え)らしきものをバイクのライトにつける、有無をいわさずこちらの頭にウディンもどきの鉢巻をさせようとする、額とコメカミに米粒をはりつける、あげくの果てになにやらいかがわしい数珠のようなものをふたつ、こっちのポケットに押し込もうとする。あれよあれよと言う間もない一瞬のことである。

なんでも「ブサキ寺院に行くには、これらが必要」なのだそうだ。
なにをおっしゃる、ブサキ寺院は警戒区域内で、今立ち入り禁止ではないか。しきりに「寄付を寄付を」と言うが、あまりの理不尽さに全部返して振り切る。
先に止められていたワゴンカーの後部座席に乗っていた老白人は、気前よくいくらか払って開放されたらしい。あとで追いつくと、頭に白い鉢巻をしていた。それにしても、すぐそこで山が煙を吐いているというのに、たくましいものだ。

ブサキ寺院に数キロというところに、見晴らしのよいワルンがあった。地元と思しき人たちがかれこれ10人ばかり集まって、アグン山を眺めている。
標高は約1,300メートル。
晴れ渡った空の下、アグン山はもうもうたる煙を上げている。煙は東にゆっくりとたなびいて黒いカーテンを空にかけ、カーテンのすそには灰燼のギャザー模様が垂れていた。

生まれて初めて見る光景にみんな浮かれてでもいるように、山を指差して楽しそうにキャアキャア言い合っていた。
わたしは椅子に腰掛けて「バリ・コピちょうだい」と注文。
「すごいね」「すごいでしょ? 煙が朝よりも黒くなってる」
と呑気なものである。写真を撮ると言ったら、わたしもわたしもと、笑顔ではいってくれた。

その後さらに走って幹線道路から脇道にはいり、もう少し山頂に近づいてみた。付近の集落には普通に人がいて、子どもが遊び、変わったことは何もないようだ。後ろの山の山頂からでた黒い雲が空のほとんど半分を覆っていることを除いて。
聞くところによると、学校も通常通り授業をしていたらしい。

村の集会所の前に若者たちが大勢集まって座り込み、みんなで上を見上げている。バイクで乗り付けると、立ち上がってニコニコと迎えてくれた。

ひょっとすると、避難のことで相談していたのかもしれないが、切迫感はなく、どちらかというとみんなで煙見物という趣である。
こちらでも「すごいでしょ?」といった自慢を聞かされ、ここは火口から7キロだと教わった。わたしは知らないうちに警戒区域の奥深くまで入り込んでいたことになる。途中に、制止線やゲートや警戒標識などは一切なかった。

ブサキからバングリ、ギアニャールを経由してウブドゥに戻る。
この日もバングリの前後で猛烈なスコールに会ったのだが、前日の経験に懲りてレインコートを携行していたので震え上がることはなかった。
走行距離は113キロ。

あの人たちは、いまごろちゃんと避難できただろうか。それとも救援の手が届かなくて、いまも楽しそうに噴煙を見物しているのだろうか。
いずれにしても、無事を祈りたい。

ウブドゥに戻ると、家の近くの広場に大勢集まって闘鶏に興じていた。わずか30数キロのところに富士山よりちょっと低い火山があって、それが盛大に煙をあげているというのに、その周りではウン万人の人たちが危険にさらされているというのに、暢気なことである。
聞けば明日お祭りがあるので、その資金稼ぎのための帳場であるという。この期に及んでお祭りもやるのか。

バリ国際空港

空港が閉鎖された

バリ国際空港からの
アナウンスメント

火山が噴火すると当然航空機の飛行にも影響する。
火山灰がタービンに付着してエンジンを損傷させる危険があるだけでなく、燃料や冷却システムを詰まらせたり、視界が不良になったりする、滑走路が滑りやすくなるなど。
要するに、噴火の直接的な威力というよりも、火山灰が怖いのである。

当初から「閉鎖される可能性があるが、現在は空の便に影響は出ていない」と喧伝されてきた。たしかに、第1回目の噴火があった11月21日も、噴煙は東に流れ、空港方面に火山灰は行かなかった。

文字通り雲行きが変わったのは2回目の噴火の25日からである。
この日到着便16便が欠航したのを皮切りにその後欠航が相次ぎ、さらにジャワ島南部沖のインド洋に発生したサイクロンが噴煙を火口から空港のある南西方向に引き込んだため、とうとう27日朝にはバリ国際空港自体が閉鎖ということになってしまったのである。

27日までの段階ですでに欠航によって約9,200人が足止めを食らっており、この日に欠航した国内・国際線445便合計59,000人とあわせて約7万人の乗客に影響が及んだことになる。

28日も閉鎖。わたしの帰国便は30日の午後8時45分。かなり不安になってきた。これはクアラルンプール行きのマリンド・エアで、そこからさらにトランジットで台北に行き、台北からはチャイナ・エアで福岡に戻るというややこしいルートであったから、マリンドが仮に飛んだとしても、遅れるとチャイナに乗れない。

27、28の二日間で計880便が欠航、12万人が影響を受けたとの報道。
空港はさぞかしごった返していることだろう。状況を把握して必要な覚悟をしておくために、一度空港のカウンタに行ってみようかと考えたものの、騒然たる様子を想像してそれもやめ、運命に任せることにした。

実際、28日の段階で空港ロビーに待機していた乗客が「どこかの飛行機が2機離陸するのを見た」と証言し、空港関係者がそれを否定する、といった報道もあって、空港での混乱ぶりが伝わっていたのである。

その後29日の午前7時まで、さらに30日の午前7時までという具合に、1日延ばしに閉鎖が延長されて、いよいよ覚悟が必要になってきた。急いで帰るためには、隣のジャワ島のスラバヤまで満員バス16時間の旅をして、そこでどこかへ行く便の空席を待つか、あるいはこのまま噴火の沈静化を祈ってバリにとどまるか。

空港が再開された

29日朝、突然「本日午後2時28分に空港を再開」というニュースが飛び込んできた。
空港当局の説明は「噴火は依然続いているが、噴煙が南と南東方向に流れ、空港上空が清浄になったため」ということであった。

なんという幸運であろう。しかし、その後フライト・スケジュールを注視していると、その日実際に飛んだのは数便で、あとは軒並み「Canceled」のマークがついていた。安心はできない。

いよいよ30日。
朝確認すると、今度はほとんどの出発便が「Scheduled」となっていて、それまで溜まっていたムクドリの大群が一斉に飛び立つような按配であった。前日のCanceledは、おそらく機体の都合がつかなかったせいであろう。
しかしそれでもなお、安心できない。いつ風向きが変わって突然閉鎖となるかも知れないのである。

イミグレーション周辺

心配と不安で、出発の3時間も前に空港に行った。驚いたのは、意外に閑散としていたことである。
搭乗するまでにいろいろとトラブルがあるだろうと見込んでいたのだが、チケット・カウンターも、出国手続きもいつもより格段にスムーズで、それほど列を待つでもなく、あっという間に終わってしまった。逆に暇を持て余し、離陸するまで風向きが変わりませんようにとヒヤヒヤする時間が長く感じた。

出国ロビーの相談窓口

なぜあそこまで閑散としていたのかはわからないが、出国ロビーに急遽設けられた16カ国・地域の相談窓口の担当者も、いずれも暇そうにしていたのが印象に残った。
この後広島の自宅まで、きわめて順調に何事もなくたどり着いたことは、言うまでもない。

空港が閉鎖された場合の対応

ところで、空港が閉鎖された場合、帰国できなくなった観光客をどうするか、政府も知らんふりをしていたわけではない。

「世界的なリゾート地」バリ島へは年間に500万人の観光客が訪れる。バリ島の人口は422万人(2014年。これが長期滞在の外国人を含む数字かどうかは不明)だから、それを上回る観光客数である。
しかも、その多くが1泊や2泊ではなく長期滞在を行っている。わたしの知り合いでも、2年いるとか3年いるとかいうのがざらにいる。
普通の観光地とはかなり違うのである。

これを反映して、バリ州の域内総生産のうち観光業は40%を占め、財政収入という点でいうと観光関連が2/3を占めるのだという。

その観光客が、噴火の影響で減少している。たとえば、10月の外国人観光客は9月に比べて16%減少した(インドネシア中央統計局)。9月末から11月21日の噴火直前までのバリ島の経済損失は1,660億円に上るらしい(BNPB)。

だから、観光客に安心してもらえるかどうかはバリ州にとって死活問題である。噴火しても主な観光地はアグン山から離れているから安心、たとえ空港が閉鎖されても代替交通をちゃんと措置してあるから大丈夫、といい続けなくてはならない。

そこで、どういう代替交通が用意されていたか。

バリ州観光局から9月27日に
出されたステートメント

9月27日、バリ州観光局から出されたステートメントでは、バリの外に9つの代替空港を準備しており、300台のバスでフェリー乗り場やバスターミナルに移動できる。

9月28日。インドネシア運輸省によると、バリ島から最寄りの空港まで乗客を運ぶために100台のバスを用意、乗客はデンパサール空港から最寄りの空港までバスで直接送迎される、バリ島から近いバニュワンギ、スラバヤ、ロンボクの各空港では、デンパサール空港が閉鎖された場合の航空機の受入れの準備が整った。

9月30日、国内の10の空港を代替利用することとし、すでに各空港への移送のため300台のバスも手配済み。またフェリーでジャワ島など島外へ移送する手はずも整えている。

10月5日、バリ州知事の発表では、スラバヤ(ジャワ島)とロンボクの各空港への陸上・海上送迎、宿泊、また帰国するためのチケット代が無料で提供される、ビザが切れてしまった場合にはビザの延長が手配される、この経費についてはすでにジョコ大統領によって予算の承認が得られている。

10月13日、バリホテルレストラン協会の会長は、帰国することができなくなった観光客のために、最初の一泊は無料、二泊目からは50%オフでホテルを提供する準備が完了したとコメント。

11月28日、空港当局の発表では、無料バスはムングィのバスステーション(空港から25キロほど)までと、パダンバイ港(同40キロほど)まで。ムングィからは運輸省がスラバヤ空港までの直行バスを用意しているが30万ルピアの料金。パダンバイ港からロンボク空港まではどうなっているのか不明。

代替空港は3でも9でも10でもかまわないが、バスは100台なのか300台なのか、いったいどこからどこへ運んでくれるのか、無料なのか有料なのか、本当にスラバヤまで行けば飛行機に乗れるのか(スラバヤ発はすでにすべて満席という情報もあった)、帰国するまでのチケット代無料とはどういうことか、情報が錯綜していて一向に釈然としない。

ロンボク空港を利用するためにパダンバイ港まで送るというけれども、ハザードマップによれば「土石流、降灰などの危険」区域を横切らなくていけない。そのときはどうするのだろう。

2年前にはジャワ島ラウン山(7月)、ロンボク島バンジャリ山(11月)の立て続けの噴火でそれぞれ4日間、2日間バリ国際空港が閉鎖されている。これで十分に予行演習ができていたはずであるが、やはり災害時の組織対応というのは、そんなに円滑にはいかないものらしい。

教訓

こういう時には、あわてないこと、日ごろから情報収集能力を磨いておくこと、お上をあまりあてにしないこと。陳腐ではあるが、こうしたことをしっかり再認識させられた数日間であった。

予定通りの飛行機に乗っただけとはいえ、マデをはじめ多くの友だちを残して自分だけ逃亡したことに、多少の後ろめたさを感じなくもない。アグン山の動向をネットで見ては胸をなでおろす毎日である。

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