category name  »  page title date

ロンボク海峡の渡りかた

ロンボク海峡

ロンボク島はバリ島の東隣の島である。マデの学んだ高校はその島にある。マデに言わせると、まだ「昔」がたくさん残っていて、素晴らしいところだという。
ロンボクに行くには、ロンボク海峡を越えなければならない。越えるには、飛行機で行くか、フェリーで行くか、あるいは観光客用のクルーズに参加するか、小舟をチャーターするか、いくつかの方法がある。
フェリーで行ってみることにした。ウブドゥから東へ車で1時間ほど走ったパダンバイの港から、ロンボクのルンバルという港にフェリーが就航している。飛行機だと25分だが、フェリーでは4時間かかる。

ロンボク海峡は、近いところでほんの30キロほどの狭さだが、実はここは、イギリスの動物地理学者アルフレッド・ラッセル・ウォーレスが発見した「東洋区とオーストラリア区の動物相の境界線」いわゆるウォーレス線が通っていることで有名なところである。ウォーレスは、クンバン・ジュパン号で1856年6月15日にバリ北岸のブレレン港を出て、ロンボク海峡を横断し、2日後にロンボク島のアンペナンに到着した。

おそらくウォーレス線に関係するのだろうが、ウェゲナーの大陸移動説(ウォーレスの航海から56年後の1912年に最初の2つの論文が発表されている)に依拠すると、この地域は、大昔の超大陸であるローラシア大陸とゴンドワナ大陸が、再び邂逅してぶつかった場所に近い。プレートテクトニクスでは、ゴンドワナの末裔のオーストラリア・プレートと、ローラシアの一部の中国プレートとの合わせ目が、太平洋プレートの発達によって干渉し、ぐじゃぐじゃになっているところである。

この海は、やはり船で渡るべきではないか、というのがフェリーにした理由である。

プル○○・ヌサン○○号

乗ったフェリーはパダンバイ13時30分発のプル○○・ヌサン○○(インドネシア群島の王座)号、550排水トン、乗客定員300名、積載車両35台の堂々たる船である。1964年に日本で建造され、1997年にこちらに移籍した。大阪から持ってくるのに14日かかった、途中しけで大変だったと、吐く真似をしながら船員が説明してくれた。

これから書く話しは、ひょっとしたら法に触れることかもしれないので、船の正式名称と乗った日時は内緒である。

客室デッキは4時間過ごすには殺風景で退屈そうだったので、さらに梯子を登って操船デッキに上がった。
操舵室の中には、確かに日本語で「点灯」「停止」「熱式火災報知装置」などと書いてあって、その下にそれぞれインドネシア語の表示がテプラで貼り付けてある。

出港後の船内で、それらを見せてもらいながら「実は、わたしは日本のライセンスを持っているのだ」と一級小型船舶操縦免許証を見せて自慢したら、結局これをきっかけにして、その後3時間半の間、わたしひとりでこの大きな船を操縦することとなった。

以下は、操船しながら、観察したり取材したりした、コックピットの中の様子である。

クルーたち

船の中はいたるところ人でいっぱいになっていて、操舵室にも大勢入り込んでいた。それに混じって、部屋のすみの床に敷いたゴザの上で出港以来ずっと眠りこけていたのが、船長のマクルフ氏である。眠っていたので、とうとう話しをする機会がなかったが、入港時に気がつくと、いつのまにかキャプテン・チェアに座っててきぱきと指図していた。

私に操舵輪を委ねたイスミアルト氏は、部屋の中をあちこちしながらだべったり、お茶を飲んだりして過ごしていたが、途中、デッキ上に米国人の10人ほどの青少年グループがあられもない様子なのを発見して、大喜びしながらカメラで撮ったり、からかったりしていた。彼らは、くそ暑い甲板の上で、男女ともほとんど半裸になって、いちゃついていたのである。
それでもイスミアルト氏は、必要な時にはひょいと私の傍らに現れて、

「はい90°」

とか

「はいこれから105°」

とか適切な指示をして操舵手としての責任を果たし、また彼のレクリエーションに戻っていくのである。

最後にルンバル港に入る直前、私と交代してからは、まるで人が変わったような真剣な目つきで、石組みの崩れた相当ワイルドな岸壁に、機関操作だけで巧みに接岸した。さすがプロである。

背が高くておしゃれなアルヤ青年は、船員のはずだが、結局何の係かはわからなかった。最後まで女の子とおしゃべりしたり、大きな声で楽しそうに歌を歌ったりしていただけで、船の用を果たしている風がなかったからである。
時々、わたしのところにやってきてコーヒーを勧めてくれた。この船の来歴も彼が話してくれた。

アルヤ青年の相手をしていた女の子はハルティニ嬢である。彼女は乗客のひとりでどこかの公務員だそうだが、船が出るなりコックピットに入ってきて、いきなり着替えをはじめたので、わたしが最初に注目した人である。
着替えはイスラムのお祈りのためであったが、それが終わった後も彼とふざけあって、最後までコックピットの中で過ごした。

ほかにも20畳はあろうかという広いコックピット内ではいろいろな人が遊んでいて、お茶を飲んだり歌を歌ったり、カードをしたりしている。そのうち何人かは正規の船員らしいが、いったいどれがこの船のクルーだったのかは、上の3人以外にはとうとうよくわからなかった。
わたしにときどき近づいてきて、コンパスに触れようとする人がいたので、そうかなと思ったら、ただの乗客だった。コンパスの台座の途中に、かつては何かの装置がつけられていたらしい孔があって、そこに灰皿が置いてあったのである。

船は、水深2千メートルはあるというロンボク海峡を、わたしの操縦で一路東に航路を保った。幸いにして波静かな日だ。最初は全く他の船に出会わず、ひたすら大海原を進んだが、しばらく行くと右手前方にうっすらとヌサペニダの島が、正面にはもっとうっすらとロンボクの山影が見えてきた。そのうち、こちらに向かってくるフェリーに会った。

「確か、右側通行は世界共通のはず」

と緊張しながらすれ違う。
すれ違いながら、向こうの船の窓が見えた。手を振っているのがいる。こちらのコックピット・メンバーもきゃあきゃあ言いながら手を振っている。

日本から5千キロ離れた海峡に来て、この天真爛漫なクルーたちと大勢の乗客と、眠りこけた船長と、それにトラックや乗用車を満載して、わたしはコンパスとにらめっこしながら、ひとり緊張してラダーを握り、550トンの船を動かしている。
その間ずっと、このなごやかさ、いい加減さ、楽しさは、いったいなんなのかと考え続けた。

ロンボク海峡を渡りたいという人があったら、ぜひフェリーで行くことをお奨めする。
乗船したら、一番上の甲板に進んでコックピットを覗くこと。それに、船舶免許をあらかじめ取得して携行すること。

自分で操船するフェリーの高い艦橋の上から眺める、ロンボク島の海岸は絶景である。
とくに、ルンバル港にアプローチしていく途中の入り江両岸のマングローブ林とその中に点在する民家のたたずまいは、この世のものとも思えない。
江戸時代末期に瀬戸内海を訪れた若い英人プラント・ハンターも、同じような感激を味わったに違いない、と思えた。

入り江にさしかかってから港まで、およそ3海里(5.5km)。
港の岸壁が見えてきたところで、クルーたちが戻ってきてわたしと交代したので、あいにく接岸という難事業には手を染めずにすんだ。

その後車で島内を巡っている途中、港に立ち寄ったら、偶然にもそこでPN号に再会した。向こうが先に見つけて、クルーたちが「お~い」と手を振っている。
今度はわたしに接岸までやらせろ、だめか? と冗談を言ったら、操舵手のイスミアルト氏は笑いながら、やっぱり「ティダ・アパアパ」と答えたのである。

inserted by FC2 system