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アメニティ

地域情報化

もうかれこれ20年近く前のことだが、ある県の「地域情報化検討委員会」に参加したことがある。

そこでメンバーだった大学のA先生は「インターネット」がいかに革新的なものであるかを力説紹介した。まだ閲覧ソフトがほんの初期のものであったし、ネットワークに接続する環境も整っていなかった時代である。それに、インターネット自体がまだ大学以外には開放されていなかったこともあって、他のメンバーは「へえ、そうですか」と、キツネにつままれたような感想しかもてず、当の先生はオタクまがいの目で見られたのであった。

別のメンバーで、通信会社の幹部のB氏がいた。氏は近々営業開始が予定されている「PHS」というものについて紹介。近い将来には、ひとりひとりが固有の電話番号をもつことになるでしょう、とニコニコしながら予言した。
これも、他のメンバーはいつも聞かされる景気のよい未来論、というふうに聞いたと思う。なにせ、現在一億台に達しようかという携帯電話の加入者も、まだ全国で百万台そこそこだった時代のことである。

いま、家族全員が当然のようにケータイをもっていて、わたしのケータイは使うたびに、どのポケットに入れたか探さねばならない。
電車の客席のあちこちで乗客がメイルにふけり、駅のホームでは少年少女たちがケータイでインターネットにアクセスして時刻表を調べているなどという風景は、A先生もB氏も隔世の感をもって眺めているにちがいない。
と、これだって、もうすでに時代遅れで、覗きこんでみるとみんなスマホなのである。

隔世とはいっても、つい二昔のことなのである。この間に「情報」をめぐる世間の常識はずいぶんと変化した。なにが当たり前でなにが当たり前でないかという基準は、時代とともに激しく変わっていくものだということがよくわかる。
少なくとも、いまスマホをもっていないと、それらしいへ理屈をつけねばならないし、ホテルで無線LANが使えないとサービスが悪いといわれる。この時代に厚生年金保険裁定通知書の発行に申請から二ヶ月も要するというのは、ちっとも当たり前でないと、みんな思っている。

「アメニティ」のよく知られた定義に「あるべきところにあるべきものがある状態」というのがあるが、そうするためにはつねに時代を見ていなくてはならない。なかなか緊張が必要だ。

世界人権宣言翻訳コンテスト

「第1条 すべての日本国民は、『日本人』という言葉を、誉め言葉やけなし言葉、または、道徳的に期待される・されない人間像のように使うことを控えなければならない」

これは、アムネスティ・インターナショナル日本支部が1991年に実施した世界人権宣言翻訳コンテストで最優秀賞に選ばれた「『超々訳』日本国のための世界人権宣言(野島大輔)」の一節である。

「日本人」を、いろいろに置き換えてみると面白い。たとえば、「男」「女」「年寄り」「役人」「サラリーマン」「田舎」などなど。
とかく、自分の選択や境遇を何かのせいにして、諦めたり、言い訳したりしたくなるのは人情だ。そうすれば、気が楽になって余計なストレスから逃げられるからである。でも、「それはずるいよ」というのが野島さんの言い分である。

ずるいだけでなく、本当はどうあるべきなのかということを、深く見極めようとする働きに水を差してしまう。

当たり前の集積

わたしの関係しているある集落では、ある年、正月のトンド焼きと盆踊りをやめてしまった。若手がみんな五〇代になり、子どもも姿を消して、踊り手もいなくなった今、長年やってきたという理由だけで無理に続けても意味がない。だから、これは勇気ある決断といえる。

たしかに、いろいろな年齢層で構成され、みんなが共同で農業に携わっていた時代に当たり前であった楽しみかたが、今は通用しなくなっている。
しかし、かわりにどんな楽しみや生きがいを共有すればよいか、という新しい発明がなければ、単に地域が元気を失うだけだ。十把ひとからげに「過疎だから」と知ったかぶりをして、そこで終わりにするのは、ずるいと思う。そう思った人が多かったと見えて、両方とも翌年から有志の主催で復活した。

気持ちのよい公園には、レストランやカフェがあってほしい。眺望のよい道路には、車を止めて休めるスペースがあってほしい。世の中にはさまざまな当たり前がある。

トンド焼き、盆踊り、公園のカフェ、峠の茶屋、先人が発見したおびただしい数の当たり前の集積が今をつくっている。その中には、今も当たり前なものもあれば、すでにそうではなくなったものもある。
いい加減なところで思考を中断しないで、先人の集積作業を継承していくことが、アメニティというものの基本ではないだろうか。

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