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地域主義

地域主義

「地域主義」という言葉が言われるようになってひさしい。
1960年代からの高度経済成長下で進められた地域開発が、本当に望ましい地域を育てたのか、という問題意識がもたれはじめたのは、いつごろからだろうか。
72年田中角栄の「日本列島改造論」に対して、先輩たちが素早く反応し、熱心に批判したのが思い出される。当時東大都市工学科教授であった大谷幸夫先生などは、その急先鋒であった。芳賀登「地方史の思想」は同じ72年、だいぶんあいて細川護煕・岩国哲人共著「雛の論理」は91年のことである。なつかしい。

全国総合開発計画

全国総合開発計画のキーワードは、第1次(62年)「地域間の均衡ある発展、拠点開発」、第2次(69年)「豊かな環境の創造、大規模プロジェクト」、第3次(77年)「人間居住の総合的環境の整備、定住圏構想」、第4次(87年)「多極分散国土の構築、交流ネットワーク」、第5次(98年)「多軸型国土構造、参加と連携」であった。
大都市圏への人口集中と地方の疲弊を是正し「均衡ある発展」をずっと目指していたかに見えるものの、実際にはその面での成果はほとんどなかったといってよい。
“開発”によって地域はけっしてよくはならなかった。
第5次ではその名称から“全総”の文字が消えて「21世紀の国土のグランドデザイン -地域の自立の促進と美しい国土の創造-」となっているのには、理由があったのである。
この間、「地域主義」という言葉はなにか革新的な思想、立派な思想と捉えられて、その命運をずっと保ってきた。命運を保たねばならぬ状況が、半世紀の間ずっと続いていたわけである。

「地域主義」とはなにか

しかし「地域主義」といわれても、その意味が本当のところ、わたしにはまだよくわからない。「地域の主体性を尊重することだ」と言われても、だからどうなのかと思ってしまう。
そもそも「地域」というのが、それぞれの個人を包括する多層の地域社会のことを言うのであれば、それらの社会が自身の要求と責任に照らして自らの運命を選択するというのは当たり前のことである。つまり、ことさらに尊重すべきだと言上げするようなものではない。
わからないなりに、悩みながらあえて言うとすると、地域主義とは「地域の生活、文化、空間の多様性を認めよう、いろいろであることの意義を尊重しよう」ということなのではないだろうか。これは遺伝子の多様性が生態系の安全な進化プロセスにとって必須であることと同様に、経済性にまさる基本的な目標のはずだ。「地域の主体性」云々は、その手段である。
ところが、地域主義の掛け声が、地域の多様性に貢献しているとは、どうしても思えない。どちらかというと、「地域を助けてあげよう」というやさしい気持ちが、どんどんそれぞれの地域を平準化していっているように見える。

ナショナル・スタンダードが怖い

たとえば、中央政府は「どんな道路構造とすれば安全かなどといった技術的な研究を行って地方に還元する」必要がある、とおっしゃる。これは、なかなか説得力のある意見である。たしかに、都市ごとに高速道路の規格や標識類の仕様が異なっていると具合が悪い。どこの町でも同じような問題意識で慣れない研究開発を手がけるのは、非効率はなはだしい。
そのいっぽうで、すべての建物が幅員4m以上の道路に面していなくてはいけないとか、植栽帯の幅は1.5mでなくてはいけない、といったような、住民の日常生活に密着したこまごまとしたことまで、地域差を認めず、全国で統一させる必要がはたしてあるのだろうか。
たしかに、全国の自治体ごとに、あるいは町内会ごとに、さて建物の前面道路の幅員にどういうルールを課せばよい街ができるかとか、そもそもよい街とはどういうものなのかとか、いちいち頭を悩ませていると、不経済きわまりない。しかし、そのような不経済が、地域の力を育てるのである。冗長こそが多様性を保証するのだ。
ナショナル・スタンダードを与えるという責任感を中央官僚はもっているかもしれないが、それに対する抵抗力を地域の側がもっていないと、バランスを失ってしまう。

自分たちを信じよう

自分たちの創造力と倫理観を信じることが、その抵抗力をもつのに必要だと思うのだが、東京から来た専門家の人たちは「安心しなさい、わたしたちに任せなさい。悪いようにはしないから。あなたたちは考えなくても大丈夫です。わたしたちはナショナル・スタンダードのエキスパートですから」という。
こともあろうに、地元の学識経験者といわれる人たちまでが、そういう挙動をとろうとするのは、いかがなものか。
さらに困ったことに、地方政府である自治体の職員は、優秀であればあるほど、このナショナル・スタンダードに擦り寄っていく傾向がある。安全を求めたがるのである。
専門家の技術的な知見を集めたうえで、自分たちの要求にあわせて行動計画をコンポーズしていくことが必要なのだが、この後半の「コンポーズする」というところが、なかなかうまくいかない。お節介な地域主義者たちが、そこまで踏み込んで世話をやいてしまうために、人々の自信を失わせ、結果的に多様化に向けたその主体性を踏みにじるのである。

地域主義のまやかし

地域の人々の思考を停止させてはいけない。このことが地域主義の根底になくては、すべてまやかしである。
このまやかしを蔓延させるうえで、薩長の地方政府を担った若者たちが中央官僚として大いに腕をふるったというのは、皮肉なことであった。
中央と地方との不幸な関係が、これからも100年は続くかもしれないと思うと暗澹たる気持ちになる。
地方の諸君よ、決起せよ!

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