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にぎわいと回遊性

商店街のまちづくりのキーワードとして、必ず繰り返し出てくる言葉。
にぎわいと回遊性が必要、と言われれば「結構なことです」としか答えようがない。長年にわたって生きながらえている便利な用語である。

にぎわいとは

ところで、にぎわいとは何だろう?
外国人の観光ツアーにも組み込まれているという渋谷のハチ公前のスクランブル交差点は、1回の青信号で3,000人の歩行者が通過するというが(出所が明らかでない数値らしいものの、とにかく多い)、それをにぎわいとは言わない。

にぎわいというからには、10人でも、そうでなければ5人でもよいから、人々が寄り集まって楽しそうに交歓している光景をイメージするのではないか?
場合によると、子どもを叱りつける母親でもよいし、店主と買い物客との丁丁発止のやりとりでもよいし、カップルの囁きでもよいし、多種多様な気持ちのやりとりがそこに交わされてこそ、にぎわいと言えるのである。たいていは、日常を忘れた笑顔がそこに溢れている。

「にぎわいが必要」とまではわかるけれども、気持ちのやりとりを捨てて、渋谷の交差点に憧れるようなにぎわい志向はご免こうむりたい。
人々を物理的にそこに集めるような動線を無理につくっても、それでにぎわいが生じるわけではなかろう。
にぎわいのためには、活発なコミュニケーションが生まれるような街の雰囲気、そこにいる人の意識、それを助ける装置などが必要なのである。
それを具体的に実現するのは、大変むつかしい。それで、安直に人を集めることだけに集中してしまうので、なかなか本当のにぎわいが得られにくいのである。どてらの上から背中を掻いてすませているような気がする。

回遊性とは

回遊性などという概念は、いつから叫ばれるようになったのだろう?
名古屋学院大学の川津昌作氏によると、「1990年代半ばから社会において回遊性に対する関心が高まってきている」ということのようだが(「都市の回遊性と消費者行動に関する考察」)、特定商業集積の特別措置法が1991年で、この頃から「回遊性」が盛んに言われるようになったという記憶がある。

ところで、回遊あるいは回遊性とは辞書によると

[広辞苑]
(1)方々をめぐり遊ぶこと。 (2)(「回游」とも書く)魚類が産卵などのため、また季節により定期的に大移動をすること。

[新明解国語辞典]
(1)あちこちをまわりながら楽しむこと。 (2)魚群が季節的に移動すること。

[デジタル大辞泉]
1.魚や鯨が、産卵などのために定期的に移動する性質。
2.買い物客が、店舗内や商店街を歩きまわること。

「新規開拓.com」
顧客が店舗などを歩き回ること。
顧客が来店したら、できるだけ店舗を回遊してもらうことで、売場接触の機会を高め、衝動買いやついでに商品を購入してもらう機会を増すことになる。
回遊性の高めるためには、店舗内のレイアウトや商品の展示方法に気を配り、顧客を誘導するための表示なども工夫する必要がある。

白川静記念館石碑の「遊」

とある。なるほど、歩き回ることを言うのか。英語では、デジタル大辞泉の2つの意味にあわせて、migratory、rambling activity となるのだそうだ。
ちなみに、“遊”は「あそぶ」という意味だけではなく、「神が行く」というのが原義で「吹流しをつけた旗竿を人が持って進む」を象形したものだという。漢文学者の白川静氏がもっとも好きな漢字としてあげたそうで、「文字逍遥」の第1章は「遊字論」ではじまっていて、縦横に含蓄が語られている。

それはともかく、回遊性についても“にぎわい”同様、隔靴掻痒の感がある。たとえば都心の回遊性をどう創出しようかというような計画を見ると、たいていは“回遊”ルートを図に描いて、そこの舗装をどうのといった内容で終わっているものが多い。

人が歩き回るのは、そうすれば楽しいことがあるからである。あえていえば、道路などはつながっていればそれでよい。できれば、安全に越したことはないが、かりに多少危険があったとしても行きたければ行くのである。
サン・アントニオのリバーウォークなどは、そのよい例である。狭くて歩行者が離合しようとすると水路に落っこちそうなルートで、しかも粗末な舗装で凸凹なのだが、大勢の観光客たちは嬉々としてそこを右往左往している。沿線に楽しいことがいっぱいあるからである。

回遊性を高めて、地区内を満遍なく訪れてもらおうと思ったら、なにか行ってみたいような“点”を散りばめるしかない。それは沿道のお店でもよいし、名所旧跡でもよいし、路上のイベントでもよい。そういうものがあれば、点と点を結ぶルートは自然にできる。ルートを最初に整備しても、それは逆であってなんだか場違いな寂しい通路が残るだけである。

リンクよりノード

にぎわいも回遊性も、面や線のように見えて、実は点なのである。点が集合して生まれる。
このことが、都心や商店街の活性化計画の中で忘れられがちだ。
魅力的なノードが集まって、やがて目に見えるリンクができるのに、先にリンクばかりに気を使った計画が多い。

その理由を考えると、リンクの部分が、比較的関与しやすいからではないか? 公共事業や補助金の対象としやすいからそこを何とかしようとしてしまう。ノードの部分は、大勢の主体がかかわるところで、しかも個人の権利に関係するために、調整や言い訳が大変だ。そのうえ、直接投資による実現ではなくて、誘導によらなくてはならないので、すぐには目に見える実績になりにくい。協定とか規則とかをつくって、長年辛抱強く待たなくてはいけないのである。
さらに言えば、ノードの誘導というのはなかなか完成予想図を描きにくい。動向にあわせて逐次計画そのものを修正していかなくてはいけない。端的に言うと非常に厄介なのである。

それで、にぎわいも回遊性も、いつも声高に掲げられながら一向に成果があがらない。

にぎわいも回遊性も、現在の行政都市計画の悩みを凝縮しているような計画概念である。

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