category name  »  page title date

グランビル考

バンクーバー

バンクーバーのダウンタウンは、ふたつの入り江に挟まれた半島が西に突き出した丘の上にある。
その先には、巨大なバンクーバー島があるので、直接太平洋に面していないため、荒波にさらされているわけではない。北米太平洋岸の良港として発展した街である。

黒潮が北太平洋海流と名前を変えて回り込んでいることもあり、サハリンと同じ緯度にありながら、冬の平均気温はほぼ広島と同じくらい。夏はやや涼しい。
年間の干満差が4m近くに達するというのも、広島に似ている。多島海であるジョージア海峡に面して、入り組んだ地形のためであるようだ。ジョージア海峡は、その幅が20km前後で長さが240kmというから、そのスケールも瀬戸内海とフレンドリーである。

瀬戸内海とジョージア海峡

バンクーバーでのウォーターフロントのありかたは、何かとこちらの参考になりそうだが、そのことについては、別の機会に。

バンクーバー市の人口は、およそ60万人、バンクーバー都市圏であるメトロ・バンクーバーの人口は、およそ210万人。広島より少し大きい。

グランビル・アイランド

グランビル・アイランドは、そのバンクーバーの都心近くにあって、70年代に再開発された地区。ウォーターフロント再開発の成功例として一世を風靡した。
いまも、バンクーバー市のもっとも重要な観光スポットのひとつである。

バンクーバーのダウンタウンからみると、南の入り江であるフォールス・クリークを挟んだ対岸に位置する。街の上空を巨大なトラス橋であるグランビル橋が横切っていて、これでダウンタウンと直結している。というよりも、この橋の橋脚の島となることで、成り行き上、陸続きになった感がある(実際にはその後、1915年にこの地区を工業化するためにフォールス・クリークの浚渫土砂で埋め立てて陸続きになったのだが)。

グランビル・アイランド

「島」は300m×600mのサツマイモ型をしていて、面積は約14ha。
ここに、パブリック・マーケットと、エミリー・カーン美術デザイン大学、ホテル1軒、いくつかのアートシアター、たくさんのクラフト工房が立地している。ちなみに、グランビル・アイランド・ホテルは3つ星ながら、3階建てのかわいい建物で、ボートでもアクセスできる、屋上にバスタブがあって、フォールス・クリーク越しにダウンタウンの夜景を見ることができる、など、ちょっとそそられるホテルである。こういう、おしゃれで茶目っ気のあるのがうれしい。

島の中の建物はほとんどが平屋か2階建てで、おそらく全体の容積率は100%をかなり下回っているのではないか。土地の所有権は、国有会社CMHCが1975年に取得している。

ここは、もと工場地帯だった、という話を聞いていたが、行ってみればよくわかる。建物はどれも、それこそ戦前からあったのではないかという感じの鉄骨トタン張りの、日本の下町工場の水準をはるかに下回る仮設的建築で、看板がなければ「コウバ」かと思ってしまうし、島の中にはいまも機械工場とセメント・プラントが実際に稼動していて、いかにも工場地帯の雰囲気がぷんぷん残っているからだ。

パブリック・マーケット

戦前の盛時には1200人の労働者が働いていたというこの島は、大不況以降の工業の凋落とスラム化などで戦後はすっかり荒廃していたらしい。バンクーバーのブライテッド・エリアだったわけである。

CMHCが土地を取得した後
「多くの決定が注意深く行われ、島は徐々に息を吹き返していった。プランナたちは、粗末な建物の間に緑の空間を配置し、大きな扉を明るい色に塗り、島の産業の歴史を強調し、高揚させた。累進的な賃料プログラムを設定することで、複合的なテナント・ミックスを促した。NPO団体をはじめ、素敵なレストランや個人の工芸家、それにセメント工場まで許容するミックスである」
と、公式HPの歴史解説に書かれている。

グランビル・アイランド案内図

工場の歴史的雰囲気を残すことと、ミックスト・コミュニティを創り出すことが街づくりのコンセプトであり、長年にわたり、きちんとそれが貫徹されてきたことがよくわかる。

再開発の費用は、19.5百万ドル(現在のレイトで換算すると、日本円で約16億円)だったが、いまや年間1千万人の来街者を受け入れて、35百万ドル(同じく28億円)の税収を生み出しているそうだ。

歴史への敬意

グランビル橋の上から、島の全体像がよく俯瞰できる(ただし、途中に横断歩道がないので、左右を見ようと思うと、およそ800mの橋を徒歩で往復しなくてはならない)。
下で見ると、チープな建物の中の賑わいがそれなりに楽しかったのだが、上から眺めると、さらにその安普請さが際立って、思わず笑ってしまう。

しかし、あそこからバンクーバー市民の創造的エネルギーが立ち上っているように感じるのは、アート工房があるから、というだけでもないだろう。この感覚は、日常的に見かける日本の「再開発ビル」や、駅前に林立する超高層ビルなどからはなかなか得られない。

「グランビル・アイランド」という名称も、なかなかよい。

この名称には、おそらく昔のぬかるんだ干潟、工場地帯の荒廃、環境汚染、貧困層の住むスラム、といったようなネガティブで不動産価値を貶めるようなニュアンスが含まれていたに違いないが、もっと明るくて、観光客がたくさん来そうな新しい名前をつけよう、などと思わなかったところがよい。
浅知恵が歴史の積み重ねに勝てるわけがないのは当たり前のことだが、とくに商業開発の場合だとこの道理を忘れがちである。

考えてみると、ヨーロッパや北米の都市開発や施設の名称には淡々としたものが多い。「ドックランズ」「ラ・デファンス」「バッテリー・パーク・シティ」、もっと古いものでは「テームズ・ミード」など、教科書で習ったプロジェクトを列挙してみて、どれも"そのまんま"なのにあらためて驚く。

そういえば全米で1、2を争う人気球場というボルティモアの「カムデン・ヤード」は、1992年に作られているが、その名前の由来は、そこにもとあった操車場の名前である。
「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島」でなくて、「東広島操車場」としたようなものだ。カムデン・ヤードには、スタンドの一部を切り取るような邪魔っけな格好で、当時の5階建ての倉庫が残されている。オリオールズのチーム・ショップなどがはいっていて、その名前も「倉庫(Warehouse)」というのがすごい。

さて、グランビル・アイランドには、ほかにも残されたものが多い。一番目立つのは、道路上の引込み線の線路である。
「なんだ、これは!?」と思わせる効果をねらったものだろう。あるいは、撤去する費用と、残してうまく舗装する費用とを天秤にかけた選択かもしれないが、「これはね・・・」と説明できる物語のネタを残した点は、大変心憎い。
「ハイヒールを引っ掛けたらどうするのだ」とか「つまずいて転んだら、誰が責任をとるのか」とか「バリアフリーに反する」とか心配した人はいないのだろうか。この再開発が、連邦政府の主導で行われたことを考慮すると、さらに興味が尽きない。

「世界の観光スポット」を目指しているのに、インターロッキングブロックで模様を描こうなどと考えていない点にも、できれば各地の道路管理者は注目してほしい。歩道の舗装を飾り立てるというのは、個人的には大変薄っぺらなことだと思う。

このことについては、「歩道の舗装」に憎まれ口をたたいたので、ご覧いただきたい。

グランビル・アイランドでは、工場地帯であったことをデザイン・モチーフに生かそう、という意気込みも随所に見られる。

ストリート・ファニチュアの類は、新しく作ったのかもしれないが、あたかも当時の木杭や電柱をそこでそのまま利用した、というテイストになっている。
公園の遊具やベンチなども、まるでどこかの工場にあった廃材を持ち込んで、わいわいやりながら作ったようなものになっていた。

見習うべきなのは、デザインの内容ではなく、こういった些細なところにまで開発の理念が共有されているという点であって、40年後の今日まで計画管理が機能しているということであろう。

リノベイション

グランビル・アイランドのリノベイションによる再開発は、保存に値する建造物を再利用したのではない、どちらかといえばスクラップしてしまいたいような建物を生まれ変わらせた、という点が重要である。

バンクーバーでは、リノベイション再開発の事例がたくさん見られる。昔の大陸横断鉄道の駅舎を再利用したウォーターフロント駅(2路線のスカイトレイン、横断鉄道、シーバスから水上飛行機、ヘリポートまでの一大公共交通結節になっている)もそのひとつ。ダウンタウンの一角にあるイェール・タウンでは、街の真ん中に機関車の転車台をそのまま残した広場があった。

とくにお勧めは、「シティ・スクェア」である。教員養成学校と、それに隣接する付属小学校のそれぞれ6階建ての校舎1棟ずつを使って間にアーケードを架け、1989年になんと近隣ショッピングセンターに再生したもの。煉瓦の外壁が現在の内壁になっていて、ユニークな空間が、楽しい。名前も媚びていないのが、よい。できれば、もとの学校の名前をとって"モデル・スクール"とでもしてほしかった。

アノニマスでない都市開発

小さなプロジェクトでも、アノニマスになっていない。

グランビル・アイランドでは再開発を主導したスタンレイ・ロナルド・バスフォード氏が「ミスター・グランビル・アイランドとして記憶されるだろう」と、公園の一角に彫りこまれている。公式HPには、参画したデザイナから建設会社まで、たくさんの人々の名前が記録されている。

グランビル橋を歩いていると、欄干に緑青を吹いた板がはめ込まれていて、そこには計画及び監修がJ.R.グラント氏、コンサルタント&エンジニアがピアソン・フィリップ氏とバラット氏、以下建設会社、着工時と完成時の市長、議会関係者、市の技官の名前までぎっしりと書き込まれていた。

シティ・スクェアでは、もとの学校を設計したのがE.E.ブラックモア氏であり、再開発の計画を担当したのがポール・メリック設計事務所であったと、銘板に記されている。

いつの頃からか、わが国では、とくに公共プロジェクトにあっては、このような慣行が無残に失われてしまった。
建設事業や計画立案の成果から、できるだけプライベイト・セクターの名前を消そうとする傾向がある。そうすることで、社会的な責任を隠蔽し、個人のやりがいを失わせているのは、都市開発にとって得策ではない。

都市景観は、デザイン・ガイドや規制だけではよくならない、映画と同じように、クレジットを明らかにするようにすれば、その何倍も効果がある、と常々考えるのだが、なかなかそうはなりそうにない。それぞれの関わりかたを正確に表現するのがむつかしい、というのであれば、まさにそこにこそ工夫を傾注する価値がある。

バンクーバーで2010年冬季オリンピックが開かれた機会に、ついでにグランビル・アイランドを歩き、そこで感じたことをつらつらと書いた。

土地の高度利用とはどういうことか、と考えるには、グランビル・アイランドを訪れてみるとよいと思う。バンクーバーは寒くはないし、日本からもっとも近い北米都市であり、うまく行けば東京へ行くのと同じくらいの費用で行ってくることができる。

inserted by FC2 system