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固有名詞

名前と人間

「名前と人間」(田中克彦著、岩波新書)は、たびたびソシュールを引き合いに出しつつ、結局のところ、普通名詞は意味をあらわし、固有名詞は情報をあらわすということ、したがって、固有名詞にまみれた論文は「汚れて」いる、というだけのことを言っているのだが、しかしこの指摘はなかなか示唆に富んでいる。

考えてみると、固有名詞というのはやはり危険だ。田中氏のいうように、固有名詞はその背後に歴史を抱えたものなのだが、その歴史にあまり深入りしなくても、名前を知っただけで、あるいは名前を口にしただけで、その後ろに広がる世界を理解したような気になってしまう。固有名詞が汚いのではなく、そういう浅薄さが汚いのである。

地名

ある都市の計画を頼まれた際、われわれがまっさきに手をつけるのは、まずその都市の地名をできるだけたくさん覚えることである。これは、その都市の住民や役所の人たちと、きちんとした会話を交わすためには必須の条件だからだ。
しかし、地名をたくさん覚えることによって、その街への理解が進む、愛着が生まれるといえば、それは錯覚である。

地名のもつ物語というのは、単にその字面を見ただけで理解できるものではないし、その地名に塗りこめられている住民の生活意識のようなものは、なかなか一朝一夕に伝わってくるようなものでもない。

地名には、謙虚に向き合うべきだ。
地名を知ったからといって、それは単にマークという「情報」を得ただけのことであって、やはりその地名を日ごろ用いる人たちと「意味」を共有できたわけではないのである。

Wikipediaによる論文

大学生に論文提出の宿題を出すと、ときどきWikipediaをコピペしただけ、といったレポートに出会う。固有名詞をちりばめれば、一見もっともらしい体裁ができてしまうという、好例である。
百科事典は情報を書いたものであって、けっしてその言葉のもつ「意味」、あいまいな言い方をすれば「におい」、その言葉を聴く人、口にする人の脳内に出てくるアドレナリンの量、などを伝えてはくれない。そういう、感情を消し去った文言をいくら延々と連ねたところで、「情報」は伝わりこそすれ、なにかを生み出す言葉にはなりえない。

自戒をこめて

先達の名前をいうときに、その解説を百科事典風にしか言えない人がいる。
そうではなくて、その人のナマの言葉で説明しないがぎり、信用しないほうがよい。その人の知識の度合いをではなく、語りの姿勢をである。

このことは、わが身にもあてはまる。
自分を賢く見せようとして、たとえば著名な人の名を深く知っているような調子で口にすることがある。単なる知ったかぶりだとすれば、これは、いかにも恥ずかしいことだ。
その印象を自分自身の言葉で表現できるようになってはじめて、その人の存在に近づくことができる、という緊張感を忘れてしまっている。

人の名前だけではない。これは、固有名詞全般、場合によると普通名詞全般にもいえることである。
そういう意味でも、「便利言葉」は怖いと思う。

便利言葉

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