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まちづくりの掟

終わりかたのデザイン

地元に小さいけれど歴史の古い温泉があって,30戸ほどの集落を形作っている。
かつては結構栄えていたのだが,近年はすっかりひなびてしまって,往時に30軒はあったという旅館も今では旅館と民宿がそれぞれ1軒ずつあるのみ。空き家や廃屋も目立つ。「なんとかせにゃあ」ということになった。

どんな活動でも,はじめるのは簡単である。当然ながら,必要な軍資金や人材を調達するには,それなりのコツというものがあるだろうが,情熱が共有できればなんとかなる。
ただし「なんとかせにゃあ」という程度の情熱では不安で,「これをしなければ」という行動イメージがないと,立ち上がったあとで宙に舞ってしまうことになる。

そこで,まず行動計画の相談からはじめることにした。
集まったのは約30名。5回の会合をへて,お花畑造成事業など4つの事業が採択され,これを掲げて組織を結成することになった。
ここで,いくつか工夫したことがある。

● 構成員は団体や役職や家族ではなく,個人であること。
● 毎月決まった日に定例会を開くこと。
● 事業は自分たちでできることに限定すること。
● 2年後にきれいさっぱり解散すること。

これらを規約に盛り込んで活動を開始した。

解散条項は,なにごとにもけじめが必要と思ったからである。
その後2年間楽しく事業を進め,解散パーティーは会員外も含め40名が参加して盛大に挙行された。4つの事業のなかには,思った以上の成果をあげたものも,途中でしりつぼみになったものもあったが,いずれもこれで「ちゃら」というわけである。
実は、この解散パーティーの席上で、また継続してやろう、ということになってしまった。これは潔くなかった。
ここまではよかったのだが、いまはみな疲れてしまって、尻つぼみのままである。

どんな活動も,はじめるのは簡単だが,終わらせるのはなかなか難しい。
この例のように年限を切るとか,○○ができたときに解散するとか,逆に未来永劫継続するとか,内容に応じて,あらかじめ終わりを決めてからはじめるようにするとよい。

「ああ,おもしろかった」

と言える機会があると思うと,安心できる。
「掟」というほどのことではないが,われわれ市民が徒党を組んでまちづくりをやろうとした時に,こういう点に気をつけたいな,ということがいくつかある。
さしずめ「終わらせかたに気を配る」ということは,重要であるが,意外に忘れられがちな掟のひとつであろう。

ワークショップ

最近よく耳にするけれども本当のところは意味がよくわからない,という言葉のひとつに「ワークショップ(以下WSと略)」がある。ひとことでいえば,集まってわいわいやりながら,共同で具体的な成果を生み出すことを目標とした会議。

辞書を引いてみると「仕事場,職場,作業場,工作場,研究会,勉強会,講習会,セミナー」などとあって,なるほどとは思うが,なぜこれがもてはやされるのだろう。

WSは,百年ほど前にアメリカで演劇の演技指導プログラムとして導入され,その後さまざまな分野に応用される中で60年代以降まちづくりへの住民参加手法として普及した,というのが定説のようだ。
日本へは,80年前後に千葉大学の木下勇さんたちが紹介したのを林泰義さんが眼をつけて,浅海義治さんや伊藤雅春さんといった人たちが現場を通して定着させた。いずれも,まちづくりの専門家として有名な人たちである。

94年に高知県の香北町で開かれた「第一回わくわくワークショップ全国交流会」には,全員の顔ぶれがそろい,熱気あふれる集会となった。これが,実質的にWSが全国展開する先駆けとなったのだが,あの頃のWSには,まだアートプログラムの匂いがかなり残っていたように思う。

最近はWSもすっかり日常のものになった。それで,なかには主催者の言い訳のようなものもある。
「WSで作りました」という公園は,単にアイデアを寄せ集めた折衷案になっていて,首を傾げたくなるようなのが多い。

「でも,みんながいいと言ったんだもん」

というわけである。WSは,決めたことの責任を分散させるための手続きや,単なるガス抜きの仕組みではないのだが,そうとしか見えないようなものもWSと称してしまっている。これで,わかりにくくなった。
最近はやりの「◯◯市民委員会」なども、この手のものが多いのは困ったことだ。

京都大学防災研究所の研究報告によると,WSの特徴は「集団思考型の体験」で「みんなが主役で『お客さん』でいることはできない」としている。
優れたWSは,参加者みんなを主役にするためにさまざまな技法を駆使して実施される。

声の大きな人,賢い意見をもった人,地位の高い人の決めたことに,その他の人が黙々とついていくという形に比べて,集団思考で生み出した考えにはパワーがあるからだ。なぜだろう?

誰もその他大勢にしない

参加者がお客さんでいられないということは,逆にそれぞれの創造の喜びにつながるということだ。
うまくいった実例をちょっとご紹介する。

参加者約20名。全員が車座に座る。司会者が簡単に趣旨と目標,4回分のプログラム,発言のルールを説明。ちなみに,このときの目標は単に「記録を残すこと」だけであった。発言ルールは「テーマをはずれる発言はしない」「順に発言し人の番に発言しない」というもの。

第一回のテーマは「これまでを振り返る」で,過ぎたことへのグチや批判など,後ろ向きの意見のみ受け付ける。
順に回って,各人が5回ほど発言したあたりで終了。その間司会者は「はい,次」という以外はほとんど口をはさまない。ルール違反については赤い旗をあげて制止する。

これで参加者は日頃の持論を延々ぶつ義務感から開放されるし,逆につまらなくて断片的と思う意見でも,とにかく発言する機会をもつことができる。

この調子でテーマを変えて進め,4回目は「小さな夢」。自分たちで実現できそうな夢だけを受け付ける。ここで話された夢は,空き家の庭木を勝手に手入れしよう,昔の写真を集めて一冊にしようなど,なんで今までやらなかったのだろうと思わせる,実にいきいきとした夢ばかりであった。

それで,そのアイデアを実現するために急遽番外の5回目が開催され,それぞれ担当を決めて進めることになった。

いつでもだれでもできそうな,簡単なWSだが,目標をこえた成果を収めたことになる。ポイントは,ルールを厳格に守ること,司会者が余計なコメントをしたりしないことだろう。

WSといっても,不必要な小道具やゲーム仕掛けを持ち込むことはない。WSと構える必要さえない。
要は,お互いが顔色をうかがったりしなくても自分の意見を言えること,参加者全員に平等の機会が与えられること、そういう環境が,なにか新しいものを生み出すのである。
そう考えると,WSは単に技法の問題というよりも,まちづくりを進める態度である、というふうにも言える。「だれもその他大勢にしない」ことは生産的なまちづくりにとって基本的な掟なのである。

口数が多かったり、やたらご高説を垂れたがるファシリテータというのは、そういう意味から言っても最悪である。逆説的かもしれないが、ファシリテータは寡黙を最上とする。

錦の御旗を信じること

ドイツのバイエルン州のある村に、完成したばかりの耕地整理を見に行ったことがある。20年かけた事業の,最初から最後までかかわったという州政府の技師が村内を連れまわって説明してくれた。

一言でいうと、環境共生型の農地整備なのである。
ゆるやかな丘陵の間の谷にくねくねと流れる小川があって、水辺はブッシュにおおわれていた。わざわざ残したのかと思って聞くと、わざわざ掘って作ったのだそうだ。
農地の一角にビオトープとして換地した土地があった。ここは荒地のまま残して柵で囲み、調査員以外を立ち入り禁止にして10年。

「そうすると、水が溜まって虫が棲みつき、鳥が来て種を落とし、草が生えて樹が育ち、そのうち森になるでしょ?」

なるほど,しょぼしょぼの茂みができつつあった。日本と違って、夏に降雨量が少ない当地では、木や草が育ちにくいのだ。

なぜそこまでやるのか、との問いに、かの技師がそのわけを語ってくれた。
驚いたことに、彼は欧州全体の地力保全の必要性、というところから語りはじめ、持続的な農業生産のためには適正な生産力の抑制と環境保全が必要なこと、だからビオトープや小川はなくてはならないものだ、ということを滔々と話したのである。文明の高邁な理想から換地のわずらわしい作業まで、理屈が見事に一貫している。

錦の御旗というのは、なにをやるにも必要だが、わたしたちはどこかで、それは便宜的なものだとさめて見る節がある。美しいビジョンはそれとして、目前のリアリティは別物だと割り切るのが賢い人と考えられている。

市町村が掲げるビジョンのキャッチフレーズは、「水」「緑」「うるおい」「豊か」などの紋きり言葉であふれているが、それがしっかり実現しているという例はほとんどみかけない。

うるおいとはどういうことか、なぜそれが必要なのか、どうすれば得られるのか、ということをそれほど深く考えないで安直に標榜するからである。なぜかというと、それは建前に過ぎないのだから、というわけだ。

しかし、それでは何も実現しない。大切なのは、きちんと旗を立てること、立てた旗を信用すること、すべての行動の規範としてその旗を利用することである。
建前と本音を使い分けることをやめて,一度実直になってみよう。そうすれば、掲げる旗も変わってくるかもしれないが、旗の重みはぐんと増すにちがいない。

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