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都市計画の手引き

都市計画の手引き

あらためて法律をひもとくと、都市計画法というのは、「都市計画の内容及びその決定手続、都市計画制限、都市計画事業その他都市計画に関し必要な事項を定めることにより、都市の健全な発展と秩序ある整備を図り、もつて国土の均衡ある発展と公共の福祉の増進に寄与する」ことを目的とした法律であり、まずは手続き法である。
都市計画法に、厳密にいえばそもそも計画というものはどのようにして作るのかという計画論は含まれていない。それは、決定権者である自治体の長に任せようというのが、法律の建前である。

ところが、公平性の確保、許可権者等による恣意的運用の排除といった要請にこたえるためであろう、細々とした基準や手引きが、この法律にもとづく政令や通達や要領といった形で国から出されている。
その数はおびただしいものであって、あたかもそれに従って手順を踏んでいけば、計画ができてしまうかのような錯覚に陥りがちである。

しかし、それを計画というのは、ちょっと憚られる。計画というのは、こうしたいという意思をもって、そのための行程を組み立てるものだからである。つまり、主体性こそが命なのである。
手引きにしたがって自動的にできた「計画」は、世の中に蔓延しているけれども、たいていの場合そこには、大前提となるその都市固有の課題や将来設計・意思といったものが、少しも反映されていない。
計画のもっとも重要な効用は、課題や将来像を議論するなかで、こうしたいという意思を構成員が共有し、より自信のあるものにしていくという点にあるのだが、手引きどおりの計画では、そのことが欠落してしまう。

人生の手引き

たとえば朝起きたらこれこれの歯ブラシ、これこれの歯磨きを使って歯を磨き、どんな朝食を何分かけてどこで食べるか、季節ごとに定められた服を、ズボンから先にはき、などというような日々の暮らしの手引きがこと細かく示されているとする。これにしたがって毎日の生活を送っていければ、なんと気楽なことか。

場合によると、これこれの機会にこれこれの手順で相手をくどき、これこれの手続きで結婚し、これこれの方法で子どもをつくり・・・というようなマニュアルに沿ってことが運べば、やっかいな青春の悩みもなくなろうというものだ。
あれこれ考えなくても、安心である。誰かに難癖をつけられたとしても、「だって、手引きがこうなんだもの」と言えばすむ。

・・・などというのは、大げさにミルの自由論を持ち出すまでもなく、当然笑い話である。

ところが、こういったガイド本は山のように出版されているし、テレビなどでもそんな話題が盛んに喧伝されている。特定の商品を売ろうという商業資本のたくらみだけではなくて、真面目な親切心にもとづくアドバイスのようなものもある。
幸いにも、実際にそれをとことん信じて忠実に実践している人は稀だろう。それぞれが自分の人生を、なんだかんだ言いながらも、暗中模索する楽しみをどこかで求めている。自分で悩んで工夫するからこそ夢もあり喜びもあるというのが、おおかたの覚悟であろう。

都市の力

都市の場合には、やや事情の異なるのがフシギだ。
いつも、どこかに自分たちよりも優れたお手本があるにちがいない、と信じている節がある。

しかし、都市自体の主体性を回復していかなくては、住民のその街への愛着の育つわけがない。新たな課題や夢に挑戦する力ももてない。都市の力とは、そういうものをいうのではないか。

いまや「活力」を高めるための処方箋が山のように出ていて、それになびけば国が助けてくれるというようなことになっているが、それで本当に活力が得られるとは、とても思えない。
いろいろと成功例が紹介されているけれども、たいていはこれらの手引きが想定もしなかったような新しい解決方法を発明した街の例だ。つまり、手引きを無視したところが成功しているのである。

問題は、なによりもまず、それぞれの都市が自分の意思をもつこと、それに伴うリスクをきちんと評価できるようになることのはずである。
そのためには、手引きを仰ぐのではなく、足元を見なくてはいけない。足元の具体的な条件や問題点が、その都市の計画論を組み立てていくのである。
手引きは、その計画論を実現するための技術を教えてくれるかもしれないが、計画内容の指針とはなりえない。

「それでは、足元を見るための手引書を見せてほしい」という声が聞こえそうだ。そうじゃないって、言ってるでしょ・・・

かつて、ある県で「都市計画基礎調査の分析の手引き」というものをまとめたことがある。基礎調査の成果をこういうふうに加工すると、こんなことが見えてくる、というのをあれこれ試してみるのは、大変楽しい作業であった。
市町村の担当者に望まれるのは、県が示すその手引きを真面目に実行してみることではなくて、この手引きを作った人はさぞ楽しかったろうなというところに思いをいたして、自分もそれをやってみようとすることである。

計画とはなんだろう

手引きの話はともかく、さて「計画」とは本当はどういうものなのだろう。

昔“計画管理”という言葉をよく聞かされた。これは、必ずしも当初計画の進行管理を硬直的に行うという意味ではなかったと思うが、なんとなく「“計画”は偉い」というニュアンスをもっている。
計画に従ってその実現をコツコツ図っていく人たちは、その奴隷である。言う事を聞いて働けば、これこのような素晴らしい未来が拓けるのであるから、文句を言うな。
計画管理には、多少浅薄にとらえると上のような語感があった。

これに対して、実際の世の中というのはもっとダイナミックなシステムである。

たとえば、街というものは、「マスタープラン」の稿に書いたように、誰かが描いた完成予想図にもとづいて一気に作られ、出来上がったらそれで固定される、というようなものではない。
ここにある日Aさんがやってきてaを設けて何かをはじめ、次にBさんがbを追加し、Cさんがcを、Dさんがdを、それを見てAさんがaをa’に変え、というように延々と繰り返されて変化していく、動的な存在なのである。

これは建物に限ったことではなく、公園とか道路とか街の部品もみんなそうだし、会社とか学校とか町内会といった組織も、時代とともに常に変化していく存在である。完成予想図は、これらにつねに追い越されていく。
たとえば、都市計画道路などはそのよい例ではないだろうか? 半世紀も前に計画決定されたものの、いまだ未整備の道路が随所にある。それが、その後の周辺の市街化の状況や新しいバイパス道路の整備に“追い越されて”しまって、すでにその実現性・必要性が失われたにもかかわらず、なかなか廃止できないでいる、というような事例を見ると、硬直化した計画と現実のダイナミクスとの乖離に唖然とする。

AさんもBさんもCさんもDさんも、傍から見ればみんな「行き当たりばったり」主義で行動する。内側から見ると、それぞれがそれぞれの“やりがい”を求めているのである。
計画に要請されることは、それらの行き当たりばったりに、ある種の理念の実現に向けて収斂していくためのモラル、リテラシーを示し、動機を与えることであろう。

そう考えると、計画を絵で表現することはあっても、それは実は、プレゼンテーションのための次善の策であり、苦渋の選択なのである。
だから計画は、理念の部分と先端の細かな戦術の部分からなる。途中の設計行為を含まないのが、よい計画なのだが、どうしても絵に走ってしまいがちだ。
理念は、いまの世の中では何の役にも立たない御託くらいに思われている節がある。いっぽう、モラルやリテラシーや動機付けのための戦術の部分は、どうしても細かなソフトになってしまって理科系には扱いにくい、というのがその理由かもしれない。

明日は明日の風が吹く、その場しのぎの成り行きまかせ、後は野となれ山となれ、という計画こそが望ましい。これ以上の計画論は、ありようがない。

都市工学科20周年

たしか、大学の都市工学科の創立20周年の時のパーティーの席上であったと思う。

大ボスの高山英華先生が挨拶に立って話された中に
「白紙に絵を書くのが都市計画だと思っているバカ者がいるが、それは都市計画ではない」
という下りがあった。
名指しはされなかったものの、これが誰のことを言っているのか明白で、思わず脇に立っておられた丹下健三先生に皆の目が注がれたのであるが、次に挨拶に立った丹下先生が
「いま、高山先生からお叱りをいただいた丹下です」
と返されたので、一同爆笑した。

それだけの話である。

その時は、ただ爆笑の輪に加わっただけで、まあ、そういう考え方もあるな、という程度の認識だったのだが、後で気のつく馬鹿の知恵という言葉通り、あれから30数年を経て高山先生の軽口の重みがずっしりと感じられる今日この頃である。

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