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マスタープラン

街は誰がつくるか

広島市の戦災復興は、とてつもない営為であったと思う。
20数年をかけた1,100ヘクタールにおよぶ土地区画整理事業によって、現在のデルタ市街地の根幹ができあがった。この中で、平和大通りや河岸緑地、平和記念公園、中央公園など、広島の都市構造を決定づけるオープンスペースが生み出されている。
その後、基町地区再開発、段原地区再開発といずれも10~30年をかけた大規模な事業がつづき、まさに都市をまるごと作り変えるような仕事を営々と行ってきたのが広島である。このことは誇ってよいと思う。
いっぽう、そのプロセスを通して、なんとなく都市は巨大な公共事業によって作られるものという感覚が身についてしまったのではないか? それで、街づくりのビジョンなども、いきおい公共投資型あるいは役所への陳情型のビジョンになりがちで、ある種の出来上がり予想図にもとづいて、誰かが全体を一気に作り上げることを前提としたようなものが多い気がする。

このところ、大規模な跡地開発にコミットすることが多かった。そこで考えさせられたことは、そういうことである。

広島市中央公園

たとえば、旧市民球場の跡地利用でなにかと話題になっている中央公園。
戦前の陸軍第5師団の軍用地の跡に計画され、78年に現在の形に完成した。そこには当時900軒といわれる原爆スラムが存在し、周辺を含め2,600戸の不良住宅の除却と3,000戸の公営住宅の建設を経て、残った42ヘクタールが公園となった。いまでは想像しにくい巨大プロジェクトである。
その最初の構想といえるものは、51年丹下健三の平和記念公園の設計案であるが、そこでは住宅建設は想定されていない。公営住宅は、原爆スラムの解消と住宅不足対策のため、あとで追加された。
追加されたものは、それだけではない。たとえば、現在の公園内にはさまざまな公園施設が設置されている。調べてみると旧市民球場は57年、青少年センターは66年、中央図書館は74年、ひろしま美術館は78年、ファミリープールは79年、こども文化科学館とハノーバー庭園は80年、渝華園は92年、県立総合体育館グリーンアリーナは94年に公園内に建設されて現在にいたっている。パーキングアクセスは、地下街シャレオができた時だと思うので、01年か。

つまり、中央公園の敷地自体は78年に一気にできたのだが、個々のパーツはその20年も前からつい最近にいたるまで、長い年月をかけて営々と蓄積してきたものなのである。それぞれ、その時々の必要と思想にもとづいてたくさんの人々の努力で積み上げられてきた。
気になるのは、その間その人たちが共通のよりどころとすべき長期目標が、どうもあったようには見えないことだ。いまだに丹下案がその後の十分な咀嚼もないままなにかと引き合いに出される。グリーンアリーナの屋根の棟を平和の軸線にあわせた、などというのは微笑ましいけれども、それではグリーンアリーナのプランニングが中央公園に何か魅力的な空間構造を追加できたか、というと心もとない。

必要なのは・・・

都市というのは、こういうふうに積み上げられていくものなのだ。だから必要なのは、個々のパーツのアイデアや全体の設計図ではなく、今から未来にかけて積み上げていく大勢の人たちの創意工夫を勇気づけ、自分たちの努力がよりよい全体に必ず貢献できるのだという自信をもてるような、しっかりした長期目標である。
「しっかりした」というのは、その目標が市民に共有されているとともに、それを実現するための仕組みが用意されている、という意味である。
旧市民球場跡地についていうと、「どこにどんなものをつくればよいか」という完成予想図を描くことに、そんなに意味があるとは思えない。
大切なことは、周辺の商業施設、文化施設、官庁街などの都心機能と中央公園とを、これから長い年月がかかるかもしれないが、とにかく一体化していこうという目標をもつことではないだろうか。クレドやバスセンターやメルパルクが中央公園側を玄関にし、県庁や市民病院、本通り、合同庁舎などから中央公園への結びつきがいつも意識される、というような雰囲気が実現できれば、中央公園が都心にあることの価値をより生かすことができる。
このためには、ひょっとすると邪魔するかもしれない法的規制の緩和であるとか、空地をこの目標にむけてうまく運用するための条例や協定の内容であるとか、技術的に議論しなくてはいけないことがいろいろとあるはずだ。要するに、物理的なデザインを楽しむことはともかくとして、それと同じくらいあるいはそれ以上の情熱で、社会システムのデザインを心がけなくてはいけない。

北米の都市の地下街

と言いながら思い出すのは、カナダのモントリオール市のダウンタウンに世界最大といわれる地下街を訪ねたときのことである。
総延長30kmとも35kmともいわれる空調の整った地下街がくもの巣のように張り巡らされていて、2つの鉄道駅、7つの地下鉄駅につながっている。ホテルやショッピングモールだけでなく、銀行から大学、博物館、ホッケー場、はたまた教会までがこれにぶらさがっていて、たいていの用が地下で足りてしまう。

マスタープランはない!

このすさまじいネットワークを作り上げた都市計画というのは、すごい。さぞかし緻密な議論にもとづいたマスタープランがあるのだろうと思って質問した。「将来計画があれば、見せてもらえませんか?」
そのとき、蝙蝠傘をステッキ代わりにしながら案内してくれた市の担当幹部の説明に、いたく感銘を受けた。
「ほとんど民間が勝手にやっていることなので、全体計画というのはありません。この先どうなるかは神のみぞ知るということです。市がやったのは、地下街の理念にもとづいて道路の地下占用許可の基準をつくったことだけです。それで20年ほど放っておいたら、こんなネットワークができました」
あまりに強く感銘を受けたので、わたしの記憶はだいぶん誇張されているかもしれないが、ここで強調したいことは、以下の3点。

(1)このインフラをつくったのは民間事業である
(2)公共側は地下街の接続を誘導する仕組みをつくっただけ
(3)20年間さまざまな主体の思惑やその時々の状況にあわせて個々の事業が積み重なった結果、ネットワークが「できてしまった」

マスタープランの新しい形

いまの時代にマスタープランに求められる内容は、戦災復興から高度成長期に必要とした「出来上がり予想図」のようなものではない。それならどんなものか、と聞かれてもむつかしいが、おそらくもっとも重要なのは理念の共有という役割であろう、とは言える。
どうも、都市計画の理念というのはあまり信用されていない。便利言葉を連ねただけの、身体感覚から遊離したようなものが多いせいでもある。きれいごとはそれとして、現実の社会はもっと複雑でどろどろしたものだ、と棚上げしてしまうのが賢いやりかただと思われているふしがある。
しかし、信頼に足りる理念と、それを実現するための仕組みが構築されてはじめて、長年の風雪に耐えて実効性をもつ計画になるのではないか。なぜかというと、都市を公共が一気につくる時代は終わったからである。
あまり賢くならないで初心にもどり、心に響くような、あるいはみんなの想像力をかきたてるような目標をさぐる努力をしよう。
こういう市民的なトレーニングがこれから求められると思う。そうでなければ、単に絵に描いた餅をまきちらすだけで無為に時代をへていくことになる。その間、広島の街は羅針盤もないまま、さまざまな主体の思惑とその時々の状況に翻弄されながら、混乱していくばかり・・・とならないとも限らない。

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