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道の駅

むかしの旅

むかしの旅は,すさまじかった。

何がというと,まず一緒に移動する人の数である。
たとえば,戦のときの兵士の移動。
カエサルのヘルウェティー族との戦争では6万の軍団が9万の敵と闘い,第四次の川中島の合戦では上杉・武田両軍あわせて約4万の兵が行軍し,といった話しはあげはじめるときりがない。

ほかにも,たとえば十字軍は,毎回2万とか3万の大群が数年間かけて遠征。米西部開拓時代の幌馬車隊は,平均で60台,多いときは100台が連なり,約1,300キロを72日かけて移動。
旧満州鉄道の調査によると,シルクロードの隊商はラクダ300頭で構成したとある。

加賀藩主綱紀の参勤交代では,4千人が13日かけて江戸に赴いた。団体旅行ではないが18世紀初頭のおかげ参りでは,50日間に362万人が伊勢に来たという本居宣長の有名な記録がある。

もうひとつすさまじかったのは,とんでもない距離を,歩くのである。
ラクダの隊商も,基本は徒歩だったし,参勤交代も伊勢参宮もすべて徒歩。日本では馬は主に荷物用で,人の乗る車の使用が許されたのはやっと明治になってからのことだ。

旅をささえたもの

このような旅を支えたのは,いわゆる道路ではない。
大勢が長距離をゆっくり長期間かけて移動するには,移動手段もさることながら,なによりも補給が必要で,オアシスや砦や宿駅などの点的な施設がその役割をはたした。
旅人は,次の「点」を夢見ることで,砂漠や山中の難儀な道をたどれたのである。
日本でもむかしは,宿場や立場(たてば)が発達して,旅の安心と快適さを保証した。江戸時代の主要街道の伝馬制の駅は,10キロ内外の間隔で設けられたという。

いまは高速移動が可能になって,補給の必要が薄れた。しかし,その分だけ豊かな旅ができるようになったかというと,そうでもない。
宿場は人馬や食糧や宿泊の用立てをしただけではなく,情報や人情の補給基地でもあったのだが,それがまるごとなくなってしまったからである。
全国で996カ所にもなろうとしている「道の駅」は,そういう思いでつくられたはずだが,さてどうだろうか?

道の駅

道の駅は、1990年に「中国・地域づくり交流会」が提案し、その後の社会実験を経て制度化されたもので、93年に最初の103箇所が登録された。
その時、中国地方ではたしか6駅で出発したと思うが(現在は90駅を超えている)、わたしはこの時から2000年頃まで、「中国地方道の駅連絡会」の顧問という立場で、道の駅のありかたの議論に参加していた思い出がある。

「『道の駅』登録・案内要綱」には、「一定水準以上のサービスを提供できる休憩施設」として、「地域の創意工夫により道路利用者に快適な休憩と多様で質の高いサービスを提供する」という基本コンセプトが示されているが、その頃の議論の雰囲気には、まさにそれに沿って「具体的にどんな機能をどう用意すべきなのか」「そのために道の駅相互の連携をどう図るべきなのか」といったことがらを、真剣に考えるという風があった。
情報や人情の補給基地としたい、という期待もあったのである。

車旅行者のニーズとはどういうものか、たとえばオムツの替えも必要だろう、当地の地方新聞も読みたいだろう、カメラの補修もしたいだろう、といった視点や、地域情報を出すとはどういうことか、たとえば道の駅で旅館や地元料理店の予約がとれたほうがよいのではないか、地域の小さな祭礼の予定がわかったほうがよいのではないか、といった視点で道の駅のありかたを夢想していたような気がする。

何事も易きに流れる、とは思いたくないが、その後そういった本質論とは別に、道の駅の実態は、道路管理者を後ろ盾とした土産物店の方にシフトしてしまった。
たしかに、まとめて地元産品を購入できるお店がほしいというのも、車旅行者のニーズかもしれないが、他のニーズへの対応は、その後各地に広まったコンビニや、インターネットが代行して沿線に分散し、道の駅のワンストップ機能が失われ、その一方で既存の民間ドライブインがどんどん駆逐されていった。

まあ、お土産を売るというのも、たしかに地域振興ではあろうが、そろそろもう少し地に足のついた地域振興策を考えたほうがよいのではなかろうか?

それは、すでに道の駅ではないのかもしれないが、道の駅の延長で考えるとしても、コンビニとガソリンスタンドと役場の出張所に、清潔で安いプチホテルが一体化したような、ホスピタリティの高い施設があってもよいのではないか? あ、それと郵便局と銀行ATMも必須ですね。できれば、地域の集会所とか小図書館などがあるとなおよい。

と、たまには「旅」のことを思い出して、こんな議論もしてみたい気がする。

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