太田川は中国山地の構造線を突っ切って西から東に流れ下るのだが、可部で直角に南に進路を変えた後、広島旧市のデルタに入って6本の派川に分かれ、豊かな水の都の情景をもたらす。
可部から下流部の沿川に広がる低地部では、太田川の水利を網目のように取り込んで、水田や軟弱野菜の栽培が行われてきた。そこでは、同時に年中行事のような洪水に悩まされてきただろう。
広島の城下町の計画では、城とその城下を守るために、対岸の堤防高を少し低くして、街が溢水の危険から逃れられるようにしてきたという話だし、派川に分かれる直前の川内地区では、地名のとおり本流と古川に挟まれた中州のような地形のところに西から安川が合流するという影響もあって、昭和にはいってからもたびたび大きな洪水被害に見舞われてきた。
昭和18年9月の洪水では、浸水面積2,200ha、被害家屋12,000戸。これが、下流太田川放水路の完成や温井ダム、高瀬関の完成によって被害が激減し、ほぼ同じ規模の流量を記録した昭和47年7月洪水では1,000戸、平成17年9月洪水では190戸の被害にとどまった、と河川事務所のパンフレットは高らかに報告している。
ちなみに、被害の詳細を別の資料からみてみると、次のとおり。
● 昭和18年7月
死者46人、行方不明46人、家屋全半壊332戸、床上浸水1846戸、橋梁流出126件、田畑流出185町歩
● 昭和18年9月 台風26号
家屋流出50余戸、家屋浸水11,545戸、橋梁流出36件
水害区域面積:32,811 町歩
県内死者39人
● 昭和20年9月 枕崎台風
死者13人、家屋流出615戸、浸水家屋8,711戸、田畑浸水2,400町歩(太田川流域全体)
県内死者1,229人
● 昭和47年7月 梅雨前線
水害区域面積:約200ha
被災家屋数:約1,000戸
死者3人
県内死者35人、全国死者410人、行方不明32人
● 平成17年9月 台風14号
水害区域面積:約130ha
家屋全壊4戸、一部損壊44戸、床上浸水284 戸、床下浸水154戸
全国死者・行方不明者29人
広島市が発表している洪水ハザードマップでは、川内学区と南側の中筋学区のほとんどが2~5mの浸水、対岸の口田学区、口田東学区や、下流の東野学区では5mを越える浸水区域が広がっている。
以前、この川内地区の微地形の区分と市街化との関係を調べてみたことがあるが、昔からの集落が、沖積低地の微高地である自然堤防上にみごとに立地しているのを見て、昔の人は偉かったと感心したおぼえがある。わたし自身が見聞したわけではないが、なんでも古い家の納屋には小船がしまってある、という話であった。いくら微高地とはいえ、5mも浸水するのであれば、船も必要となる事態が一生のうちで何度かは発生したのであろう。
昭和18年9月の死者は県内合計で39人、昭和47年7月は同じく35人だったのであり、災害規模が格段に縮小したはずなのに、人的被害はそれほど減ったわけではない。太田川中流域だけの比較ではないし、そもそも2度の死者数の多寡だけで云々するのもいかがかと思うが、洪水災害の質が、広く浅くという状況から、一旦事あれば激甚化する点的な事象に移ってきている、とはいえるのではないか。
河川災害に詳しい宮村忠氏(関東学院大学名誉教授)も、現代は異常に堤防への依存度が高く、リスクへの認識が薄まってきていると指摘して、「巨大化・長大化する堤防にとって、洪水の時の水防活動は、ますます重要になってきている。できれば技術の発展に合わせて、可能な限り堤防を低くするということが治水史からの宿題である」と語っている。
近世・近代を通じて、これほど堤防への依存を意識したことはなかった。と言うより、無意識に、堤防への依存度を強めていると言った方が的確かもしれない。「堤防への依存度が強い」ことを別の表現をすれば、「堤防があるから安心」ということで、ごく当たり前の認識である。ところが、この認識は近年の特徴で、少し遡れば、「堤防は怖い」ものだった。もとより、堤防への期待はあり、その期待をかなえるための努力が重ねられ、国土や地域の安全が成り立っている。土地の利用が高度になり、都市への人口が集中したり、資産が増大するにつれ、堤防への期待は高まる。
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堤防への期待は大きいが、リスクを伴う。堤防は低いほど、破堤のリスクが小さい。
しかし、社会的要請から長大で高い堤防が建造されてきた。極端な表現をすれば、他に技術手段がないので仕方なく造ってきたと言える。
(宮村忠「日本の水害史と堤防」)
強靭な国土というのは、見方をかえると、この宿題に反しているのではないか。堤防への依存度を高め、そのためにより高い堤防を築いたことが、結果論ではあるとしても、どういう地域を形成したのかを、冷静に評価する必要がある。
それまで、毎年のような浸水のために人が住むことのできなかった低地部が「安全」な場所となり、大勢の人々が移り住み、穏やかな日常を営めるようになった。その多くがきわめて都市基盤の脆弱な新興市街地であったとしても、それは洪水の危険とは関係ない。
新住民は、船を用意することはおろか、微高地を選択するという必要性も覚えず、要するに洪水と向き合う文化というものに無縁で過ごす。そうしているうちに、ある日突然100年に一度、200年に一度という確率を越えるような凄まじい水の猛威に襲われるのである。
リスクは、ゼロか激甚かというディジタルなものではなく、そこには連続性が必要ではないかと思う。
強靭な国土という思想は、リスクに不連続性をもちこんで、激甚への構え、住民の洪水とかかわるための文化の醸成というものを阻むものではないか。
都市計画は、「他に技術手段がないので仕方なく造ってきた」強靭な国土形成に加担すべきではない。
それは、いま現に住んでいる人たちの生命を守るための緊急避難的な、已むにやまれぬ措置であって、長期的なビジョンは、また別の方向で考える必要があるからだ。市街化区域の線引きや警戒区域の指定などは、どちらかといえばこの緊急避難にあたるものであって、都市計画が目指すべきものは、その先にある。
夢を語るとすれば、日常的に災害のリスクを実感できるような土地で、人々がそのリスクと調和するライフスタイルを工夫して生きていける、というような地域社会のありかたが望ましい。
危険な場所に住もう、と言っているわけではない。しかし、地球上のどの場所をとっても、危険でない場所はないのである。どんなに防災装置を整備しても、つねに想定外のことは起こる。
思い起こされるのは、教科書にも登場する「信玄堤」「霞堤」、各地の「潜水橋」「流れ橋」などのことだ。自然の力に「強靭」に立ち向かうのではなく、謙虚にいなすことで、激甚な事態を和らげるような知恵を、わたしたちの祖先は生み出してきた。この精神は、どうしても見習わなくてはいけない。
また思い出されるのは、メスカルティタン。原広司氏の「集落への旅」で紹介されて有名になったメキシコ太平洋岸の水上都市である。湿地帯の中にある直径300メートルほどの丸い人工島に900人ほどの人が住んでいる。幹線道路は、縦横井桁状の道路と環状線の計5本。これらが雨季には水没するので、住民は小船で往来するのだそうだ。
メスカルティタンの道路が冠水するのは危険だ、子供が溺れたりしたらどうする。
安心しなさい。周囲を100年に一度の洪水にも耐えられる堤防で囲んであげます。さもなければ、島全体を危険区域に指定して、家を建てられないようにしてあげます。
というような愚を、わたしたちは犯していないだろうか。
それが愚だというのは、100年に一度を越える洪水が発生した場合に、それまでは「あああ」ですんだものが、なまじ堤防ができて安心していたおかげで大惨事になりかねないからだ。
危険区域云々については、言わずもがなである。毎年の浸水とつきあうことで、この島特有の生活様式が営まれ、そのことによる幸せや不幸せ、喜びや悲しみの歴史が積上げられてきたのである。その歴史がまた、大きな被害からこの街を守っている。
大切なことは、自然と折り合っていくための固有の様式を許容し、それを生み出す力を育てることであって、標準を当てはめて全否定することではない。
2014年8月に発生した広島豪雨災害で、安佐南区緑井に住んでいたわたしの知人が、同居していた母親とともに亡くなった。突然襲ってきた土砂に飲まれて、さぞ無念であったろう。ついさっきまで「まさか」と思っていたことが、実際に起きたのである。
彼は行政マンであったが、その後の防災論議を、草葉の陰からどう聞いているだろうか。
聞きながら、行政のリアリズムを超えた発想を切望しているに違いない、と思う。
単なる「強靭化」は、宮村氏の言われるように、防災装置への依存度を高め、安心を助長して、逆に災害発生時の危険性を大きくしてしまう。
以上のことは、あの後に、流れ出た土砂を掻き出しながら考えたことである。
だから、こうしたらよいなどという目の覚めるような名案があるわけではない。しかし、すくなくとも都市計画や警戒区域の線引きとか砂防ダムの必要性といった、上から目線の議論には、できるだけ与しないようにしたい。
本当に必要なのは、夜中の豪雨下を円滑に避難できるような体制であったり、それぞれの土地が抱えるリスクを日頃から学びあうようなコミュニティであったり、土砂崩壊の予兆をたえずセンスして、的確迅速に住民に知らせるようなシステムであったりするわけで、要するに、傾斜地の土砂は崩れるものだという前提で、生活を再構築していくことだと思う。
言い換えれば、直前まで「まさか」と思わないですむように「びくびく」しながら生きるすべが求められるのではないか。
この点では、人間は謙虚に動物に立ち戻らなければならない。