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大きなことと小さなこと

大きなことと小さなことと、どちらが好きかといわれると、「小さなこと」と答えたい。

大きいというのはメジャーなことである。誰でもその価値を認めている、ということである。それから、力が強いということである。
小さいというのは、その反対である。マイナーで、あまり人に知られていなくて、力も弱い。

大体は、大きなことになびいていれば安心できる。その価値を認めた大勢の人々、なかんづくお墨付きを与えた権威ある人と同じ側につくことができるからである。
だから、無意識でいると、それが単に大きいというだけで味方になりたい、と思ってしまう。そこで思考が停止してしまう。

そういうことに気をつけるために、断固小さなことの方が好きだと高楊枝を決め込むことにしている。

大きな歴史と小さな歴史

大和盆地で都市計画をやっている友人が、奈良の近世はかわいそうだという。

奈良というと○○京や環濠集落といった古代の歴史が重すぎて、例えば江戸期の潅漑遺構などで面白いものがたくさんあるのに、あまり注目されないのだそうだ。
飛鳥時代の遺跡の発掘をやっているのに比べると、田圃の畦で江戸時代の水利を調べているなどは、あまり偉くないように見られてしまう、ということだろうか。

奈良だけではない。どこの地域にも教科書や町勢要覧で紹介されるような歴史のメインストーリーがある。しかしそれを繰り返し聞かされていると、地域の歴史はどんどん平板で単純なものに、それ以外の出来事はつまらないものに見えてくる。

ところがある日、近所のちょっとした昔話を古老から聞かされて、歴史の重層的な厚みに突然目が覚めた、というような体験を誰でももっているだろう。

小さなことはすばらしい

市井の人たちが残した小さな歴史を、取るに足りないことだと無視してはいけない。
私の歩んでいる小さな道は称賛されたり尊敬されたりするものでないかもしれないが、かといって、つまらないことと足蹴にされてしまうとしたら、元気が失せる。

それから、小さなことは文化的な生産性にも貢献する。これなら私にもできる、と思えることは重要だ。

小さなことは、みんな違っていて数も多いから、多様性にも貢献する。世の中にはいろんな人がいて、想像もつかないようないろんな人生があるもんだ、という世界観の前にひれ伏すためにも、小さなことに目を向けなくてはいけない。

大きなことは危険だ

これに対して、大きなことを愛でたいという気持ちは、どちらかと言うと不健康である。

例えば、先入観があるために、既に発見されたものを追体験しているだけなのに、自分で感じたように錯覚してしまう。つまり、身体感覚から遊離しがちだ。

さらに,大きなことは価値があることだから、大きくすること自体が目的となってしまう。
まちづくりのイベントなどでいうと、何人集めたとか、いくら稼いだとか、マスコミに取り上げられたとかということが成果になってしまう。持続させるのも大変だから、持続自体が目的となりかねない、ということもある。
そうやって、知らないうちに本末転倒の仕業となる。

最も危険なのは、世の中の大きな仕組みや流れをコントロールすることで人々が幸せになるに違いない、という妄想につながることだ。
現場で汗を流すよりも法律や制度をいじっている方が偉いと、つい思ってしまう。

大きなことへの偏愛は、例えば文化財の解説を並べ立てただけの街案内とか、貴重種による自然の説明とか、エネルギーや廃棄物処理の問題を巨大技術やスケールメリットで解決しようとする姿勢とか、様々なところに現れてくる。

小さなことを大きなことに

大きなことは、すでにそれを発見した人がいて、それを讃える人も多い。だから、小さなことに注目して、実は見方によっては大きいのだ、という発見者になるほうがよほど楽しい。

最近流行の体験型ツーリズムなども、最初から大きなものを探したり作り出したりするのではなくて、すでにある小さなものの魅力を発見するようなツーリズムとして組み立てれば、より心打つものになるのではないだろうか。

田舎には、小さいながらも実は大きいこと・ものがたくさんある。

案内標識とガイドマップ

といったような話題に対して、ひとつだけ例をあげると、街の案内標識やガイドマップの類に考えさせられるものが多い。

「観光振興のために案内標識を設けよう」と、ここまではよいのだが、案内対象が名所旧跡だけ、それも街角標識のように手間のかかるものではなく、駐車場にバァンと大きな案内地図を建立しよう、そこに設置者である○○観光協会の名をでっかく掲げよう、というようなことになりがちである。
せっかく作ったのに、ノンスケールで目的地までの距離さえわからないようなものも多い。

ご存知のように、こういうものだけでは、ほとんど観光客の役に立たない。

「来訪者が迷わないようにガイドマップを印刷しよう」と、ここまではよいのだが、いろいろなガイドマップが乱立していて、しかもどれを見ても同じような内容、それもコピペしたような解説文が並んでいる。
何冊読んでみても、いっこうに情報量が増えない。

かつて、中国地方の観光ガイドマップ・コンテストの審査委員長を引き受けて以来、このことが気になって、すっかりガイドマップのコレクターになってしまったのだが、たまに、ほんのたまに「二十四の瞳の大石先生が自転車で通った道」「ホタルの穴場」などという表示を見ると、ほっとする。しかし、大半はやはり“大きなこと”案内に終始している。

“小さなこと党”の私ならどうするか

案内標識

ある地域の案内標識を立てるというプロジェクトに関わったことがある。そこで「道しるべの10の原則」というのを相談して作成した。

その要点は、まず見る人が迷ったり悩んだりしないように徹底的にシステマティックに立てること。ドイツの道路標識に倣って、内容によって分けた3色の矢印とした。
それから、常に最新であるようにすること、案内する対象はできるだけ多くすること、等々を基本に、地図の上で綿密に計画を立てて住民の人たちの手で制作、設置を行った。

そういう原則がよかったかどうかは別として、とにかく地域のホスピタリティを発揮するには、なかなかよい取り組みだったと思う。
1本1本は小さいけれども、角々に立てるので矢印の枚数は膨大になる。それにしても、手作りなら、かなりしっかりした標識を立てても、かかる費用はわずかである。

あの方式は、地域に小さな宝ものがたくさんあることを再発見する方式であった。
宝ものは観光資源だけではなく、標識を立てるための知識や技術をもった人材もそうであった。杉板や鉄製ポールやカッティングシートの加工、塗装、コンクリートの基礎づくり、穴掘り、資材運搬・・・。それぞれ機材も持った堪能な人が必ずいるものだ。

いま、案内標識の相談を受けたら、少し面倒ではあるが、また同じようなやりかたで地域の人たちと一緒に楽しみたいと思う。

ガイドマップ

ガイドマップには、案内する区域の広がりに応じて縮尺の確かな地図をベースマップとして使う。これは、見る人にちゃんとしたスケール感をもってもらうと同時に、標高とか小道とかの余計な情報を提供するためでもある。

当然、名所旧跡は残らず記載する。しかしもっとも重要なことは、街歩きに必要な情報をできるだけ親切に掲載することで、たとえば公衆トイレやコンビニ、郵便局、駐在所などの場所などを示すことは必須事項である。
そのほかに、「かつて筏を組んでいた岸」「鯉の棲む淵」「ときどき猿が出ます」「ベンチあり」「眺めがよい道」といったプチ情報、小字名や水路名など地域通になってほしい情報などを集めて記載する。年間の行事予定やバスの時刻表などがあってもよい。

外からの来訪者は、こういう小さな情報に飢えているのである。こういうおびただしいディテールからこの地域はできているのだ、ということを知ってもらおう。

こういう地図も、実はいやというほど作った。
書き込む内容は、既存のガイドマップをいくら集めても埒が明かないので、毎回地域の人たちに集まってもらって、ぺちゃくちゃやってもらった。
けっこう楽しい作業だったから、できあがった地図を見る人にもそれが少しは伝わったのではないかと期待している。

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