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観光とまちづくり

“大きなことと小さなこと”の続編のようなお話である。

観光による地域振興というのは、なにも今に始まったことではなく、古くからのテーマである。実際にそれで大成功した地域の例もいろいろ喧伝されてきた。
それらの成功例を分析して観光がまちづくりに与える効果は次の3点である、というのが定番のようだ。

(1)経済的な活性化
(2)交流人口の増加
(3)住民意識の変化

実は、こういう整理学が観光の本質をはずれて、観光に力をいれてもまちづくりにつながらない原因になっているのではないか?
結果的にこういう効果があったということと、こういう効果を狙えば成功するということとは、もともと関係がない。

さらに言えば、なにをもって成功と言うのかという思想的な根拠が薄弱で、現在のパラダイムにどっぷりつかった項目建てであることが、ちょっと気持ち悪い。
少なくとも、これでは順序が逆である。まず、第一に期待すべきなのは、住民意識の変化であるはずだ。

広島の郊外に、さる高名な大銀杏を見に行った。さる神社の境内にそびえる樹齢1100年、高さ48m、根回り10.6mという堂々たる銀杏である。プチ観光名所にもなっていて、町内の案内図に必ず記載されている。
仰ぎ見て周囲を見渡すと、NTTの電柱が境内のすぐそばに立っていて少し傾いでいる。電話線が樹冠の下を斜めに横切っている。神社本殿の裏山には、石積みを模した化粧型枠のコンクリート擁壁がそそり立っている。入り口には錆びて穴のあきかけたトタン屋根の駐車場が無造作に放置されている。

これらに関わった人々が悪いとは思わないが、どの人もこの神々しい大銀杏に対する慈しみの気持ちをもっていなかった、というのがよくわかる光景である。これでは、たとえ大勢の観光客が訪れてたくさんお金を落としてくれたところで、「成功した」とは言いたくない気がする。

案内図に記載したり、駐車場の整理員を配置したり、記念の土産を考案したりする前に、もっとやるべきことがあったのではないか?
上の(1)(2)(3)という順序づけは、そのことを忘れさせてしまう。

たとえば、ある集落のお宮は小さな祠が2つ並んでいるだけのちっぽけなお宮である。しかも小高い山の中腹にあって急な階段を120段も登らなくてはならない。
信心深い、あるいは伝統を重んじる村人たちは、感心なことに年に何度も日を決めては清掃活動を続けている。しかし、最近はみんな年だし、しんどいからそろそろ年に1度にしたらどうか、といったような話が出始める。

そこへある日町場の人たちがやってきて、「いいなあ、このお宮は」「こういう森の中で、いい雰囲気だなあ」「村の人たちがせっせとお守しているのも、いい感じだなあ」といったような、どちらかというと無責任な感想を述べる。
そうすると、村の人々は「あら、嬉しい」と思うだろう。
嬉しいから、やはりきちんとお守をしよう、という気にもなるだろう。
その嬉しい気持ちは、お金では買えない。

嬉しいから来てほめてほしい、というのが受け手からみた観光である。
いっぽう行く側からみれば、自分たちの日常と異なる体験をして、ショックを受けたり、励ましを得たり、新しい世界の見方を発見したりしたい、というのが観光である。

この双方がうまく成り立つようにするというのが、本当の観光振興ではないか? 
ほめてもらえるように、ああしよう、こうしよう、というのが“まちづくり”の始まりであり、そういう意味ではまさに観光と“まちづくり”は一体のものだ。いきなり、ターゲットをどうするか、何ヶ国語の表記がよいか、どこの代理店と提携すればよいか、などと浮き足立った思案をしたところで、“まちづくり”は始まらない。

わたしの“まちづくり論”は、ナイーブ・アートのようなものかもしれないが、こういう気持ちを忘れないようにする勇気をもたないと、“まちづくり”はどんどん如何わしいものになる。

田舎町の真ん中の駐車場に誇らしげに建てられた大きな観光マップ(そこには「○○観光協会」や寄付した団体のクレジットが大書され、マップの情報はたいてい古くなっていて廃業したお店が載っていたりする)や、上げ膳据え膳の田植え体験イベントなどを見ると、実に情けない気分になる。こういう風になってしまう力学が奈辺にあり、どうすれば本来の観光と“まちづくり”を取り戻すことができるのかを冷静に解き明かすことが、研究者やコンサルタントなどの専門家のつとめであろう。

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