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パブリック・アート

別項でバリ島のパブリック・アートの事例写真を列挙した。
いずれも、圧倒されるようなもの揃いである。バリ島の職人の心意気が沸き立っているのに感心すると同時に、羨ましくてカメラを向けた。

とはいえ、それらが、そんなに単純に愛でるべきものかどうかは、実はよく知らない。ひょっとしたら、パトロンである政府か企業の力を見せ付けるためのもので、大衆から見れば権力の象徴でしかない、といったこともありえなくはない。

とはいえ、単純に観光客の目から見ると、そこに現出している光景にはまことに瞠目すべきものがある。

とはいえ、こんなことをヤンヤと囃し立てる心境は、幕末に日本を訪れて浮世絵に驚いた欧米人と同じではなかろうか。それは職人の個人的資質ではなくて、環境の違いに由来するのだ。

アートが成立するには、それを可能とする社会的背景が必要なことは論を待たない。
「すげぇ、すげぇ」と顕彰する周辺とか、十分な報酬とか、簡単にスクラップ・アンド・ビルドしてしまわないような慣習とか、名前が残ることの保証とか、要するに職人のやる気を鼓舞し、安心して没頭できるような環境がなくては、時代の流れに耐える作品は生まれない。

現在の日本におけるパブリック・アートの質は、涙が出るほどプアとなってしまった。
ヨーロッパに限らず、南北アメリカ大陸やアフリカやアジアの街角を思い浮かべてみると、彼我の街中アートのレベルの差に愕然としてしまう。
かつて、複数のディベロッパーによるニュータウンのアーバン・デザイン・ガイドなるものを作成したことがある。そこで、法面・擁壁、橋梁、道路などに具象のデザインを施さないこと、といった条項を追加しようとした。それは少し行き過ぎではないか、ということで削除されたのだが、考えてみると確かに具象が悪いわけではない。
よその国の「すごい」パブリック・アートの多くは具象作品である。しかし、現在の日本では、それを許すとたちまちチャラチャラしたユルキャラのようなものになってしまうのも事実である。そうならないための社会的な背景が弱いのである。このことは、トンネル・アートの現状を見ればよくわかる。

ある都市の観光散策ルートの案内表示のデザインを検討するという業務が発注された。驚くことに、それが一般公開入札にかけられたのである。ちっぽけなものかもしれないが、案内表示も立派なアート作品となるべきもののはずである。それを、担い手のやる気やアイデアや技量ではなく、こともあろうに安く請け負う人にやってほしい、といっているのである。
これはとくに酷い例かもしれないが、一般に景観デザインに関してはこの程度の意識しかもたれていない。

パブリック・アートの多くは公共空間に設けられるものである。美術館や収集家の蔵の中ではなく、一般の目に触れ、市民生活の一部となるものであるから、より一層質の高いアートがほしい。毎日それを眺めて、「うまいなあ」とか「すごいなあ」とか思いたいし、あんな情熱を自分も持ちたいなというような勇気をもらいたい。

公共空間に設けられるものであるから、その管理者である行政がちゃんとした思想をもたなくてはパブリック・アートは成立しない。
この案内表示のように、無思想、前例主義、責任転嫁のやっつけ仕事は、パブリック・アートに限らず、いろいろな場面で悲しい弊害を呼んでいる。しかしそれも、そうせざるを得ないような難しい背景があってのことで、単純に批判するだけではどうしようもないね、と言われるに決まっている。
そうであれば、例え一般公開入札でもよいから、もっと重要なことにチャレンジしてほしい。
それは、やった人の「名前が残る保証」である。アート作品にとって、クレジットがつくことはとても大切なことである。人は自分の名を汚さないように振舞うものだし、できた作品が納得のいくものであれば胸を張りたいものだ。

パブリック・アートは、路上の彫刻やレリーフのみを言うのではない。建物も、電信柱も、バス停も、道路標識も、郵便ポストも、ありとあらゆるものがパブリック・アートの資格をもっている。
それらが一切合財アノニマスであって、誰がやったものかわからないようでは、質が向上するはずがない。決定権者、設計者、施工者などの名前が公開されるような社会となってはじめて、お互いがパブリック・アートに真剣に向き合うことができるのである。
アートの街づくりは、美術館や公募展から始まるのではないということを、しっかり肝に据えるべきである。

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