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眼に見えない景観

砂漠の井戸

サン・テグジュペリの「星の王子様」は、名フレーズの宝庫である。なかでもよく引き合いに出されるのが「大切なものは眼に見えない」という一節。
リンゴの木の下で出会った狐が別れ際に「秘密」として教えた言葉である。これを心にしまった王子様は飛行士に「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだ」と語りかける。

景観についてのもっとも大きな思いこみは「景観は眼に見えるものだ」ということではないかとつねづね思っている。とくに「景観政策」といわれる場面では、ほとんど徹頭徹尾眼に見えるものしか取り扱われないことが不思議だ。

松江城のお堀が美しいのは、それを埋めなかった市民の愛着が伝わるからである。広島のポップラが美しいのは、川の中に一本の木を残そうとした戦災復興の心意気が伝わるからである。
色とりどりの華麗な遊園地や、トンネルの入口に描かれた絵が、どうも安っぽく見えるのは、それが表面だけのことだと知れてしまうからである。

景色という言葉は、もとは「気色」という中国語の呉音読に由来するのだそうだ。心ばせが面色にあらわれたようすが「けしき」なのだという指摘は、以上のような事情をうまく言い当てている。

以前、有名な建築家のF氏と一緒に水辺の景観について調査していた時「景観は立面図ではなく、平面図でみなくてはいけない」と教わった。
ある建物の景観のよしあしは、対岸からどう格好よく見えるか、ということで決まるのではない。その足下まわりがどう楽しくなっているか、ということの方が、よほど重要なのである。

楽しくなっているとは、たとえばこういうことだ----水辺に行くために通り抜けられる通路がある、水辺で一服するために利用できるカフェがある、フリマやコンサートなどに自由に使えそうな広場がある・・・。

まわりに対する思いやりや、人々のいきいきとした発想を助けるような配慮を内にもった建物であれば、必ず美しい景観をつくるはずだ。
砂漠を美しくするために、そこに絵を描いたり看板を立てたりするのではなく、ひとつの見えない井戸を掘ることに汗をかくようでありたい。

ドラム缶の鐘

asahi.comから

芦屋の西法寺というお寺は、1995年の阪神・淡路大震災で半壊したが2003年に再建され、その屋上にドラム缶の鐘が設置された。「ゴン、ゴン」という余韻のない薄っぺらい音がするそうだ。
神戸新聞によると、十年忌ではこのドラム缶の鐘が打ち鳴らされ、地元の俳人木割大雄さんの「喚鐘(かんしよう)や十歳(ととせ)の春のドラム缶」という句が披露されたという。

震災直後、このお寺が避難所になった際に、お風呂や、炊き出しにドラム缶が活躍したのだそうだ。
「わたしたちはドラム缶で震災を乗り越えた。どこの鐘よりもすばらしいという自信があります」という副住職のコメントがすべてを語る。
いわれを知らなければ、それは単なる安っぽいオモチャでしかないが、わけを知ったら、法隆寺の鐘楼の中に置いてもはずかしくないと思えた。心の中に、堂々とした荘厳な音を響かせ、長い余韻を残す鐘にちがいない。

どこの街角にも、どこのあぜ道にも、長い長い時間をかけた小さな物語りの積み重ねがある。わたしたちは、それを簡単に踏みつぶして、新しい立派なものを作ることに慣れてきてしまった。
新しくて立派なものが、どことなく冷たくて、どことなく人ごとのように思えるのは、そういう乱暴さの代償であるからだ。

ものを残すのが難しいのであれば、土地の名前だけでも残してほしいと思うのだが、わたしたちの身の回りでは、地名のスクラップ・アンド・ビルドの洪水だ。もとの地名と一緒に、累々と積み重ねてきた土地の記憶を消し去っている。
予算がどうとか、法律がどうとかという実務的な配慮もなくてはいけないが、それにおとらず大事なことは、小さな物語りが踏みにじられないで大切にされるように心を砕くことではないだろうか。

景観が眼に見えるものだという思いこみは、この大事なことを忘れさせてしまう。

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