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中央図書館よ、きばれ!

まちづくりヒロシマ No.64に寄稿したものです。

先日、思いついてヴァイツゼッカー独元大統領の演説集を読み返してみました。なかでもやはり1985年連邦議会での「荒れ野の40年」が心に響きます。「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」という有名なフレーズを含んだ演説です。しかし驚くのは、どの演説にも具体的な政策への言及が乏しいことです。かわりに、国民がどういう姿勢を保ちどういう価値観にもとづいてどういう意思を持つべきかということを、諄々と説いています。
ドイツといえば、旧東独出身の物理学者であったメルケル前首相の演説も、心に残るものが多くありました。2019年米ハーバード大学の卒業式でのスピーチ「正しいからするのか、可能だからするのか、それを繰り返し自問しつづけてほしい」という訴えは、その冷静で淡々とした語り口とともに人々の記憶に残っています。
かつて、ミュンヘン郊外の村の圃場整備を見に行ったときのこと。ブッシュに覆われて曲がりくねった小川や人の出入りを排除したビオトープなどを換地で生み出した、非効率な土地利用の理由を尋ねると、事業に携わった州の技官は、欧州全土の地力保全の必要性から説き始め、したがって農地整備の目標はいかに土地の生産力を抑制するかということだと、滔々と説明してくれたのです。
ドイツ国民を十把一絡げにするつもりもないし、他の国の人々の演説にも歴史的に評価されるものがたくさんあると思いますが、少なくともこれらの言葉には、大きな正義や理想というものがどこか遠くにあるのではなく、現実の行動の規範に充分なりえるものだ、という確信が感じられます。

こんなことを言うのは、理想やそれを語る言葉に対する信頼が、今の広島で少し欠けているのではないかと思うからです。
広島は「国際平和文化都市」という立派な都市像を掲げています。それが、単なる便宜的な建前だと奉ってしまうのではなく、この都市像を真に立派なものにし、広島を世界から尊敬を集める都市にしていくためには、「国際とは何か」「平和とは何か」「文化とは何か」と不断に問い続け、それを個々の都市政策の拠り所とし、そのことを内外に発信していく必要があります。
昨年5月の市議会本会議で可決成立した「広島市平和推進基本条例」はその第2条で「『平和』とは,世界中の核兵器が廃絶され,かつ,戦争その他の武力紛争がない状態をいう」としています。わたし自身は、そこに「平和」についての深い洞察が見られないことに赤面してしまいました。
「平和」についての考察や研究は、これまで夥しい蓄積があるはずですし、広島市基本構想では「『平和』とは、世界中の核兵器が廃絶され、戦争がない状態の下、都市に住む人々が良好な環境で、尊厳が保たれながら人間らしい生活を送っている状態をいう」、広島市男女共同参画推進条例では「平和とは紛争や戦争のない状態だけをいうのではない。すべての人が差別や抑圧から解放されて初めて平和といえる」と定義していて、平和についてわたしたちに深く問いかけています。平和推進基本条例は、これらの蓄積を黙殺し、そこに何ら新しい考えを追加しなかっただけでなく、平和の概念そのものを矮小化させてしまいました。

広島市中央図書館は、国際平和文化都市の「文化」を担う重要な中枢機能です。この間、その建て替え候補地についての実務的な比較検討はなされましたが、中央図書館自体のあるべき姿についての訴えは、ほとんど聞こえてきませんでした。広島にとって文化とは何なのか、DX時代の中央図書館がその高揚のためにどのような役割を果たせばよいのか、そのためにどんな課題があるのか、各区図書館やこども図書館、まんが図書館、公民館図書室など他の市立図書館との関係がどうなればよいか、といったことを熱っぽく語りかけてほしいと思います。

昨年12月に総務委員会に提出された「中央図書館の再整備候補地の比較検討について(案)」では、次のような評価がなされていました。
エールエールA館は広島駅に近いので「国内外から観光やビジネスで訪れる来訪者が広島の歴史、文化、産業等に広く触れ、興味・関心を持つことで、平和記念資料館や原爆ドームのみならず、周辺の 他の観光施設を訪問するきっかけとなる」「平和を願う『ヒロシマの心』の共有や、平和文化の振興に、多くの人の目に触れる機会が確保できる」点で優れている。さらに、「市・JR・広島電鉄の連携により供されるパブリックスペースを有効活用したイベントの開催等の相乗効果により利用者の更なる増加が期待でき、官民連携によるにぎわいや新たな回遊性を生み出すことに繋げることができる」など。
これらの言説を読むと、中央図書館というのは観光施設なのか、賑わい施設なのか、いったい何なのかと考えてしまいます。これではまるで、無料の貸本屋を兼ねた観光案内所とみなしているようです。

中央図書館の高邁な理想にもとづくのなら、乱暴なことを言えば、それが似島にあってもよいし、白木の山の上にあってもよいと思います。もちろん、広島駅前にあってもかまいません。あるいはどこかに書庫とレファレンスがあって、中央公園に閲覧室があるといった、分散型もあるかもしれません。ただし、そのためには新しい中央図書館のありかたについて、「便利なところだからいいだろう」などという安直な説明ではなく、市民が広島の文化について大きな夢を持てるような「言葉」が必要です。
そんな精神論は青臭くて、行政のリアリズムには合わないと言うのであれば、「正しいことは何か」と問うことをしないで「可能だからやる」という風にしか見えません。これは、行政の問題ではなく、優れて政治の問題なのです。

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