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心はどこにあるか

考えるのは脳だけではない

ああでもない、こうでもないと石を積んでいると、「考える」のは脳だけではないということが、つくづくよくわかる。
言語は、たしかにその多くを脳に頼っているかもしれないが、空間認識とか、新しい形の創造とかいう働きのなかで脳の果たす役割は、ほんのわずか --- ではなかろうか。

石積みの場合は、頭で思案していてもまったく役に立たない。考えるのはもっぱら、腕であったり、目であったり、場合によると耳であったり、積んだ上に乗ってゆさゆさしたりするときには、体全体であったりする。

それぞれの石の形を精密に3D測定し、うまい組み合わせを探し出すようなコンピュータ・プログラムをつくれば、頭だけで考える石積みをシミュレイトできるかもしれないが、これは絶対に石工さんの技には迫れないでしょうね。
それぞれの石のもつ属性は、寸法だけではないからです。石と石とがあわさった場合に、各面の不整合の結果として現れる目地の形、表面に出てくる石の面の大小・向き・色などのバランス、石の風化度合い。さらに、四角く見える石でも面の数は6つではなく、よく見ると8つとか10とか数えられる場合が多い。たったふたつの石をつき合せるだけでも、隣合う面の組み合わせは60通りとか、100通りとかあるわけだ。この按配を、理屈だけで調製するわけにはいかない。

石工の師匠はよく「石の顔は8つある」とか「石は隣と7つの点で接していなければいけない」とか、判じ物のような説教を聞かせるけれども、これも要するに、理屈じゃないよという趣旨であろう。

手で考える

都市の設計も同じ。
建物の形、道路の線型、宅地の地割・・・。こういうものを、頭だけで考えた設計図は、見てすぐわかる。課題が与えられると、まずパソコンの前に座って、のっけからCADで描いていった結果、とても平板な図柄となってしまっている。場所の個性が消し去られて、豆腐を並べたような街になる。
石にたとえれば、寸法だけで辻褄あわせをしているのである。微妙な風合いがなく、それぞれの場所のもつ特性の多様さと、それにふさわしい形というものが感じられない。

これらは、手で考えるのが正しい。
太いマジック(それも、黒ではなく、黄とか橙とか)で、幾重にも重ね書きして、さらにその上に油性のサインペンで輪郭を取り直し、というようなエスキース作業を通して、手や指にしっかり考えてもらうのが正しい。あるいは、太くて柔らかい鉛筆で書いては消し書いては消ししながら収束させていくのが正しい。CADは、その結果を清書するためにある。けっして設計するためにあるのではない。

手に考えてもらうと、次の動きをする前に、それまでの勢いとか、まわりの空間との関係とか、隣の線と交わる角度とか、頭では捨象してしまういろいろなことを斟酌してくれるのである。同じ○を描いても、当然ながら微妙に大きさが異なる○になって、それがある種の必然性をもつなら、空間に自然な多様性をもたらすことになる。

丘陵地を造成して宅地をつくるというプロジェクトにかかわったときのこと。
造成というのは山を切って谷を埋めるということになるのだが、切っても埋めても新しい崖の斜面ができる。この崖を、残った山の等高線とできるだけ連続するように、やわらかい曲面にしようと、そういうエスキースを手書きで仕上げて、土木設計の専門家に託した。
しばらくすると、そこをきちんと定規で直線に直した設計図が出てくる。そうではないと、設計図上に赤入れをして差し戻すと、ちょっと直して、また同じような直線の等高線が出てくる。また差し戻すと・・・・というようなやりとりを、しつこく繰り返した思い出がある。
こっちは手で考えているのに、先方は頭で考えているのである。
石積みのアナロジーでいうと、こっちは自然石の野面積みでいこうとしているのに、先方はなんとかブロック積みで安直にすませようとしている感じ。
断っておくと、崖を曲面にしたからといって、有効宅地が減るということでもないし、施工がとくにむつかしいということでもない。CADを使えば、土量計算の難易に差があるわけでもないのである。

足も考える

アスリートの運動能力なども、同じことであろう。次のアクションを頭で考えていては、とても追いつかない。アスリートとまでいわなくても、単に歩いたり走ったりすることでも、頭は「歩こう」とか「走ろう」と考えるだけで、実際に最前線でもっと複雑なことを考えているのは、足であったり、胴体であったり、腕であったり、さらに目や耳であったりする。

心とはなんだろう

さて、それでは「心」の働きというものは、いったいどこにあるのか?
心というものは、単に自身の次のアクションの是非を判断するというだけではなく、嬉しいとか悲しいとかいう自身の心的状態まで含むものであり、さらにあのときは楽しかったとか悔しかったとかいう過去の記憶まで、それらの背景要素として含むものであるから、まじめに考えると難題である。

「判断」については、これは頭だけではなく、全身が関与しているということがわかった。

「心的状態」については、自分の調子というよりも、たとえば相手の顔色とか、世間の目とか、外的な要因で左右される部分も多そうである。
自身は体調が悪くて鬱陶しかったのだが、訪ねてきた彼女の明るい笑顔のせいで、やけに気分がよくなった、というようなことである。
そうすると、自分の心的状態をコントロールしているのは、目の前にいる女性である。そういう意味では、心はわたしの体の中ではなく、彼女のところにある、といってもよい。それが言いすぎであれば、ふたりの体にまたがってわたしの心がある、と言えるのではないか。

「記憶」については、もっと拡散してしまう。
わたしたちは、自分が実際に経験したことだけではなく、他人の記憶まで大いに利用しながら日常生活を営んでいる。この「外部記憶」は膨大であって、書物や絵や写真、最近はネット上で、自分の頭の中に貯めこんだ容量をはるかに上回る記憶のお世話にならなくては、「判断」や「心的状態」を構成することができない。
「鬱陶」などという漢字は、わたし自身の頭の中には蓄えきれていない。誰かがどこかで漢字変換のシステム上に固定してくれた記憶のおかげなのである。
と考えると、「記憶」の働きというのは、頭はおろか体を通り越し、身近な世間も通り越して、世界中の人々、もう亡くなった先人たちとも共有しているのである。ひょっとすると、未来の人々と共有しているとも言えなくはない。

心はどこにあるのか

驚くべきことに、わたしの「心」は自分のものではなく、少なくともわたしの属する社会に溶け込み、もっと広くいえば有史以来の人類、もっともっと広くいえば誕生以来の人類と未来の人類の間にただよって存在する。

いま、横に犬のジロウが目じりを下げて座っている。彼が安穏に寛いでいるのは、主人であるわたしがここで大人しくキーボードを叩いているからだ。そういう意味では、わたしの行動がジロウの感情をコントロールしているともいえるから、ジロウの心は二人の間にまたがっている。
そうすると、わたしの「心」も、人類にとどまらず、もっともっと広く、動物界、植物界全体にわたってぼわ~っと拡がっているといってよい。

結局のところわたしの「心」は、わたしの心臓にあるのでも、脳にあるのでもなく、宇宙空間全体、しかも時空を超えて確たる境界もなく拡がって存在するシステムなのであって、わたしという個体は、その指示にもとづいて物理的な行為を行うだけのものである。

亡くなった人たちの魂が残っているというのは、単なる比喩ではないと思う。実際に、彼ら彼女らの心は、今もわたしとともにあるといえるからだ。

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