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マニュアルレス社会

理科系の悲哀なのか、個人的な欠陥か。

ものごとの全体が俯瞰できていないと、手が出せないという性向がある。
それで、たとえば車とか家電製品などを新たに購入すると、使いはじめる前に一通りガイドブックに目を通しておかないと気がすまない。

パソコンのソフトをCDで購入していたような時代には、ワープロにしろ何かの開発環境にしろ、どんなに分厚くてもマニュアルを読破してからでないと使うことができなかった。とりあえず使ってみる、というのが苦手なのである。
理解できなくても、全部覚え切れなくても、とにかく読んでおけば何ができるのかがおぼろげながらイメージできるし、困ったときに、確かあのあたりに書いてあったなと記憶をたどることができる。・・・と、そう信じていたせいでもある。

昔一世を風靡したCP/MというOSなどは、まともなマニュアルが手元になかったせいもあって、全部自分で逆アセンブルし、どういうコマンドがどういう仕事をするか、そのジャンプテーブルがどこに書いてあるか、などということを把握したうえでやっと安心して使っていた。

ところが、時代とともにそうもいかなくなった。
マニュアルがなくなったというよりも、マニュアルが作れないくらい製品が複雑化してしまったのである。

“Inside Mac”は、Machintoshのプログラミングにとって必須のバイブルであったが、1982年にAppleII用が出たときにすでに3巻1,000ページに迫るものだったのが、1985年版になると電話帳のような冊子がフルセットで6巻に分かれていた。
こうなると、もう全部に目を通すという気にはならない。

いま、Windowsの完全マニュアルなどというものは、まとまった形でお目にかかったことがない。非公式の「Windows 10 パーフェクト・マニュアル」なるものが出版されているが、たったの320ページ、多くても800ページほどで、各種のレファレンスをあわせても、2,000ページにならない。これがパーフェクトとは誰も思わないだろう。

もう、全貌を隅々まで理解するということは、許されないことになった。断片的な知識で、なんとか与えられた環境を利用するということだけが可能なのである。そのやりかたが最適かどうかもわからないし、用意されているものを効率よく利用しているかどうかもわからないままで、という有様だ。
おかげで、わたしの与り知らぬ機能がどっさり詰まった状態でプログラムが勝手にメモリーを占有しているのである。

これは、パソコンに限ったことではない。たとえば、複合機やカメラや電子レンジやテレビまで、いろいろな機能がこれでもかと付加されているが、実際に利用するのはそのほんの一部であって、大半は耐用年限内に一度も顧みられることがないまま廃棄される。それがふつうなのである。
スマホなんて、「完全マニュアル」を読んで、すべての機能を利用しつくしているという人がいれば手を挙げてほしい。

すっかり「群盲象を評す」状態になってしまったのであるが、ふと思い直してみると、これが正常な生き方ともいえる。

この世界は広大であって、実に無量大数のディテールの積み重ねでできている。そこへポンと放り出されて、マニュアルもないまま「断片的な知識で、与えられた環境を」手探りしながら生き延びているというのが、わたしたちの姿である。そこに喜びもあり、楽しみもある。

だから、車や家電製品やコンピュータ・ソフトが多機能なのが悪いとはいわない。
その全貌がわからないというのも、そのこと自体がいけないわけでもない。
いけないのは、その複雑な機構の向こう側に見える、何か気持ちの悪い息遣いである。
誰か、その機構の全貌を掌握している存在がいて、われわれユーザーはその掌の上で踊らされているのではないか。
踊っているうちに、どこか思ってもみなかった場所に連れて行かれてしまうのではないか。相手は、お釈迦様ではない。

そう考えると、まことに恐ろしい。

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