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パイプの話

まったく自慢にはならないが、ヘビースモーカーである。
ただし、パイプ煙草しか吸わない。それで、シガレット・ペーパーが燃えたときに発生する煙やタールを吸わないので、少しは健康被害が少ないのではないか、と勝手に決めている。

葉っぱは簡単に手に入らない

パイプは学生の頃からやっている。その頃はけっこう大勢のパイプ党がいて、どこの煙草屋さんでもパイプ煙草の葉を扱っていた。
ところが、途中でしばらく紙巻煙草に代えて、ロングピースやマイルドセブンなどを遍歴したあとパイプに戻ってみたら、世の中がすっかり変わっていた。
喫煙率が減った以上にパイプ派が激減していて、葉っぱを買える店がほとんどなくなっていたのである。
まともに銘柄を揃えているお店が、広島市内に1店だけあるのを見つけるのに、けっこう苦労した。いまは、我が家から34km、車で47分の距離にあるこのお店の常連になっている。

パイプを吸うための技巧

ところで、パイプ煙草を気持ちよく吸うためには、いろいろと技巧を要する。
たとえば、葉っぱがあまり乾いていてはいけない。適度な湿り気がないと具合が悪いので、缶にしろ袋にしろ開けっ放しは禁物である。
パイプ本体は、しょっちゅう掃除する癖をつけること。空気の通りが重くなると、火持ちが悪くなる。それに、タールが口に入ってきたりする。
掃除するには、専用のコンパニオンとモールを用いる。ないときには、爪楊枝とティッシュで代用する。後者には、とくに熟練を要する。そのために、コンパニオンとモールを持っていないわけではないが、あえて爪楊枝とティッシュで挑戦をして技術を磨いている。いまは、それぞれ1本と1枚で用を足すことができるまでになった。
それから、最初に火をつけるときは、上から満遍なく火を回して勢いをつけなくてはならない。この加減はなかなか説明しづらいが、あえていえば“惜しみなく”という表現がふさわしい。そうしないと、すぐに火が消えてしまう。
パイプを“吸う”と言うけれども、実は息を吐く回数のほうが多い。2回吸って5回吐く、といった感じ。“ふかす”という表現は、だから正確である。
そうやって無用にニコチンを摂取するのを避けつつ、火を持たせるのである。思えば、パイプ喫煙の快感は吸引だけにあるのではなく、くゆらせる煙の香りの中に身をおく点にもあるのである。
云々、云々・・・・・

技巧は自己流である

これらの技巧を教わった記憶はない。
学生時代には、同好の士の間で技術的な会話があったかもしれないが、古い話で忘れてしまった。
それ以降は、周囲にパイプを使う人がいなかったので、すべて自己流である。
もっと合理的に味わうためには、いろいろと方法があるだろう。たとえば、ネットで調べるなり、専門書を紐解くなり、パイプ・コミュニティに参加するなり、とにかく何をするにも研鑽が必要ではないか。

とは思わない

しかし“合理的”とは何か。目的に対する効率的なアプローチを言うのだとすると、わたしがパイプを吸う目的は「何も難しいことを考えないで、ぼおっとして気持ちよく煙を“くゆらす”」ことであって、別にその目的のために効率的なやりかたを極めようとも思わない。ひょっとすると、その目的自体がウソであって、何もないのかもしれない。
ファッションのためには、一定の求められるスタイルというものがあって、それは社会的なものであるから人から学ぶ必要があるのだろう。しかしあいにくわたしの場合にはもうファッションで煙草を吸うような年齢でもない。

自己流のどこが悪い

世の中には、学ばねならない、教わらねばならない、といった強迫観念が溢れている。
しかし、よく考えてみると自己流でいっこうかまわない、そのほうがより創造的で、より生産的に事が運ぶのではないか、と思われるような事案がたくさんあるのではないか。
そもそも、なににつけ目的自体があやしいという疑いもある。
目的と言われるものも、よく考えると必ずしも自発的なものではないかもしれない。ステレオタイプの目標像を与えられたものに過ぎない場合も多いのではないか。
そもそも、人生に目的などが持てるものかと深く考えてみると、少なくともわたしの場合にはとても自信がない。

ノーベル賞生物学者のジャック・モノーは今や古典となった「偶然と必然」の中で“合目的的”という耳慣れない用語を駆使して「生物進化に目的などないのだ」と口すっぱく言及したけれども、この時代のわたしたちには、その論に寄る辺なき不安をもたなくてもすむようになっている。
山崎正和氏は「21世紀の遠景」の中で、ポスト工業社会を代表する職業は“高度知的職業”と“技能技芸的職業”だとして詳しく論及しているが、前者の本質が「成果が予測不能である」ことにある、というのは言いえていると思う。技能技芸的職業にはきちんとした目標があるのだから、合目的的なやりかたを教わらなくてはいけない。これに対して高度知的職業は本人にもその目標がよくわかっていないのだから、道筋は暗闇の中である。

すべての仕事が、目標成果の予測できる技能技芸的な仕事でなくてはならないなどとは思わないで、将来の成果もしたがって現在の労苦の意味も定かではない高度知的な仕事をオレはやるのだ、そのどこが悪い、と言ってみたい気がする。

まあ、たかがパイプを吸うのに、そんな大それたことを考えることもないけどね。

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