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クリーン・エネルギー

温室効果ガス

原発を国策とするにあたっては、(1)安全である、(2)クリーンである、(3)安い、ということがその理由とされた。

「(2)クリーンである」とは、火力発電所と違って温室効果ガスであるCO2を出さない、という点に着目している。

CO2の問題などは、以前には話題にならなかった。
地球温暖化を取り上げた世界会議(フィラッハ会議)は1985年。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は1988年設立。気候変動枠組条約は1990年に国連で作成決議、1997年京都議定書採択。80年代後半から矢継ぎ早に国際的な取り組みが立ち上がり、危機意識が高まってきたのである。
その結果、温暖化の元凶としてCO2を主とする温室効果ガスが俄然脚光を浴び、原子力はCO2を出さないクリーンエネルギーだというキャンペーンが張られるようになった。

当時は1986年のチェルノブイリ事故を受けて原子力平和利用の前に暗雲がたち、原発が生き残り策に汲々としていた時代である。その格好の材料として温暖化をそれこそ諸手を挙げて喜び勇んで利用した、という感がある。

2010年に改定されたわが国のエネルギー基本計画では、ゼロ・エミッション電源の比率を20年までに50%以上、30年までに70%に引き上げること、その達成のために原発を14基以上増設することが掲げられている。
(2015年策定の「長期エネルギー需給見通し」でも、2030年の電力構成のうち原子力を20~22%としている)

たとえばパリ協定の採択された直後に、ハーバード大学のネーオミ・オレスケス教授は次のように述べて、今後原子炉を毎年115基ずつ2050年まで建設し続けて世界の電力を完全に脱炭素化することを提案している。
“エネルギー需要は今後急速に増大する。原子力発電、特に次世代原子炉はこの問題に対応できるような大規模でクリーンなエネルギーを提供する。・・・・原子力なしに温暖化を防止する信頼性のある経路は存在しない。・・・・原子力は無限のクリーン・エネルギーを恒久的に供給し、世界文明を稼働できる。廃棄物の処理は技術的に可能だ”
(このあたりの論説と反論の紹介は「パリ協定以降の原発」に詳しい。上記の引用も同ページから)

ただし聞くところによると、パリ協定に提出した各国の行動計画NDC文書で、温暖化対策として原子力発電の拡大を明示したのは、公開されている147ヵ国中、中国や日本など6ヵ国のみであったという。

地球温暖化

ところでこのような、温暖化抑制 → CO2排出削減 → 原発というのは、少し短絡的な思考パターンといえないか?

いっぽうでは、そもそも温暖化していないという説や、温暖化とCO2の因果関係はわからないという説など、ClimateGate事件を引き合いに出して解説する“懐疑派”の専門家もいて、温暖化と原発の関係自体がわれわれ素人にはなかなか理解しにくい。
原子力発電所が稼動する際にCO2を出さないというのは、そうかな、とは思うものの、その建設過程ではかなり出ているのではないかとか、ウランの採掘、精製、運搬も石油に依存しているといった指摘もある。

しかし、それ以前の問題として、原子力という巨大なエネルギーが地球環境にどういう影響を及ぼすのか、という点を総合的に俯瞰しないで、もっぱらCO2を出す出さないという点だけを問題にしようとしていることが、危険な気がする。
かりにCO2の排出量が少ないとはいっても、別のプロセスで地球温暖化に貢献しているということはないのか。

地球の熱収支

これまで地球上のエネルギーの循環は、入りの大半99.97%が太陽放射によるエネルギーで、これにわずかの地熱と潮汐力が加わり、その入りと等しいエネルギーが地球放射の赤外線として大気圏外に放出されてきたのである。そうやって、太陽にさらされながらエントロピーを増大しないでなんとかしのいできた。
この出入りのバランスが崩れて出が少なくなると、それをより大きくしようとして地表温度が上昇する。これが温暖化である。
逆に入りが多くなると、やはり出を大きくしようとして地表温度が上昇する。これも温暖化である。
この絶妙なバランスにもとづく平衡状態として、平均地表温度15℃が保たれてきた。

原発は、温室効果ガスの増加を抑制することによって、出が少なくなることを防ぐかもしれないが、入りも確実に増やすのである。これまで地球上でほとんど解放されたことのなかった核エネルギーは、太陽由来でも地熱由来でも潮汐由来でもなく、場合によると太陽系が生まれる前のどこかの恒星内部で固定されたエネルギーであって、これは確実にこれまでの平衡を崩すもののはずだ。

文明規律

財政規律とは「入るを量って出づるを制す」ことであって、歳出と歳入のバランスが保たれて財政の持続性を確保することを意味するのだそうだ。
こういう言葉があるかどうか知らないが、同じような意味で「文明規律」というものを考えてもよいのではないか?
エネルギーの出入りのバランスを崩して無為にエントロピー増大の種をまくことは、文明規律に反している。

おそらくこれに対して「そうだとしても無視できる量だ」という反論があるに違いない。しかし、これは危ない。
ひとつの都市を灰燼に帰するようなエネルギーのもとが、原発稼動の副産物として、日本だけですでに4,000発とも6,000発ともいわれる量蓄積されているのである。これが無視できる量とは、とても思えない。
そうヒステリックにならずとも、人間の尺度で見たエネルギーなんて太陽放射に比べれば大したものではない、というのも事実かもしれない。でも「ちょっとなんだから、いいではないか」というのは、立派な文明規律違反のはじまりである。石油を燃やすと地球全体の気候変動を呼び起こすなど、かつては誰も信じなかったのではないか。

不思議な蓋

量のことはともかく、核エネルギーの解放が質的には確実に地球の熱収支のバランスを崩し、その結果として温暖化をもたらすということは、少し考えてみれば自明のことであって、エネルギー問題を云々する専門家の方々が気がついていないわけはない。

そもそも、原発を巡る議論のなかで、微妙に蓋をされ慎重に避けられている論点がふたつある。

(A)ひとつは、原発が国策でなくてはならないのは、ひとえに原爆の製造能力を温存することで「技術的」抑止力を保持しようという目的のためである、という点。
(B)もうひとつは、上述のように核エネルギーは温室効果ガスを出す出さないの前に、本質的に地球を暖めるものである、という点。

(A)は、それでも折に触れて冷静な研究者の手で紹介されることがあるが、なかなか表立った論点にならない。
(B)は、これまでこのような論点を指摘されたのを見たことがない。わたしが誤解しているのかもしれないが、それならそれで、かくかくしかじかで核エネルギーはクリーンである、文明規律に反しない、ということを解説してほしい。そういった解説にもお目にかからないのが不思議でしようがない。

原発は安全かどうか、CO2を出さないからクリーンと言えるかどうか、安いかどうか、などという点は実は各論にかかわる論争であって、本当のところは地球の所業として正しいかどうかという観点から議論しなくてはならないのではないか?

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