category name  »  page title date

フレコンバッグ

フレコンバッグ

“フレコンバッグ (別名トン袋、トランスバック)とは、正式にはフレキシブルコンテナバッグ(Flexible Containers)、または、クロスコンテナバッグ(Cloth Containers)といいます。名称の通り柔らかい素材(ポリプロピレン・ポリエチレン)で作られており、使用しない時には小さく折り畳むことができます。
構造面では、箱型や円柱型の袋の上部に頑丈な吊りベルトが付属しており、クレーンなどで吊り上げて運ぶことが可能です”
(「ふくろ屋ふくなが」のホームページから)

フレコンバッグ-----この耳慣れない名称は、福島第1の事故の後急に人口に膾炙することとなった。時折工事現場や農作業現場で見かけて、頑丈で大きな土嚢があるものだと思っていたが、そうか、そういう名前の袋だったのか。
これが見渡す限り山のように積み上げられた写真を見せられて、普段フクシマを忘れていた人々もあらためて被災地の現状に息を呑む。
放射能に汚染された土や草木をこの袋に詰めて保管しているのである。

膨大な数

緑のシートで覆ったり、そのまま積み上げてあったりするフレコンバッグの山。
線量計は1.17μSvを指していた。これは、除染目標値の約5倍。

環境省と福島県によると、事故から2年半たった2015年9月の時点で県内11万4,700ヶ所の保管場所に合計915万5,000袋のフレコンバッグが野積みされているという。飯舘村では村内に230万袋と聞いた。
想像もできない膨大な量である。1袋の大きさはおおむね1立方m、重量は草木の場合200~300kg、土砂で1~2トン。砕石を目一杯詰めると2トンであろう。土砂に草木などが混じっていると考えて、平均およそ1~1.5トンと踏めば、飯舘村だけで300万トン前後という計算になる。
300万トンというと、10トン積みダンプで30万台。人口6,000人の村に1人あたり50台。除染がはじまってから1000日でおおかた運搬を終わったものとして割り算すると、その間ほとんど無人となった村の中を平均300台の10輪ダンプが毎日毎日走り続けたことになる(平成29年1月までの中間貯蔵施設への輸送実績の累計では輸送車両1台に平均6.1袋しか積めていないので、これを230万袋にあてはめるとさらに多く38万台という計算になる)。

除染はつづく

環境省の除染情報サイトでは、平成29年2月24日現在で飯舘村の除染は100%終了し、3月31日をもって避難指示区域が解除される。除染のうちわけは、宅地約2,000件、農地約1,900ha、森林約1,500ha、道路約310haとなっている。

いっぽう飯舘村除染計画書(平成23年9月)によると、除染の対象は宅地1,733戸、企業・公共施設110施設、道路34.5ha、田畑・牧草地雑地あわせて2,687ha、森林18,755haということであった。区分けのしかたが異なるから細かな比較はできないが、村の計画で18,755haであった森林が国の直轄除染事業対象としては1,500haと1割にも満たない。
これは宅地近辺の森林だけを除染対象とした結果だ。
残りの17,000haを(線量に関係なく)対象外として、環境省は100%完了と言っているのである。

これは多分に誤解を招く。
村の面積23,000haのうち、17,000haが対象外であって、実際に除染が終了した面積は26%に過ぎないのである。100%ではない。

26%で230万袋であるから、これから自治体や住民が数十年かけて取り組まなくてはならない残った森林の除染を考えると、目が眩んでしまう。

シジフォスの神話

灰や煙に含まれる放射性セシウムのことをとりあげて、木質バイオの利用を目指すのは不謹慎であるという指摘もあるが、これだけの量を今後単なる放射性廃棄物として管理するというのは、むしろ現実的ではない。
とくに地元住民にとって、汚染されたものを取って捨てるだけというのは、非生産的であるばかりか、いつ終わるともしれない気の滅入る作業である。運び終えると転がり落ちる岩を山頂に運び続けることを強制された、ギリシャ神話のシジフォスを思い起こさせる。

汚染された落ち葉や木枝を、環境を汚さないように燃やして、生活や農業に生かすための技術を開発することのほうが夢がある。
飯舘村の菅野宗夫さんは「地震津波とちがって、放射能はその後の生活を下へ下へ向ける。生きがいを示すこと、気持ちを明るくすることが大切なのに、行政はそれをやってくれない」と言っているが、誰もシジフォスになりたくないのは当然だ。夢が求められているのである。

溶けて崩れて流れゆく

2015年6月に環境省が仮置き場580ヶ所を調査したところ、ブルーシートやフレコンバッグ本体の破損が78ヶ所、防水シートの水たまりが158ヶ所、底に敷くシートの水たまりが108ヶ所で確認された。
粗悪なフレコンバッグが破損しているが大丈夫なのか、という指摘はすでに事故翌年2012年1月の国会でもとりあげられている(それに対して当時の野田首相は「『仮置場におけるフレコンバッグの破損と汚染土壌の露出』の状況については把握していない」旨の答弁書を返している)。

仮置き場からは3年以内に中間貯蔵施設に搬出するという建前で、一応3年間の耐久性を求めているものの、それ以前に破損した例がかなりあったことになる。中間貯蔵施設の進捗から考えて、とても3年以内というのは想定しがたいので(実際に仮置き場の契約延長が続々と行われている)さらにゆゆしい事態だ。

そのうえ、積みあげた袋は大雨で冠水したり流されたりするので、中の放射性物質が一気に環境に放出される恐れも否定できない。
2015年9月10日から11日朝にかけて、台風18号の影響で阿武隈山地や浜通りで非常に激しい雨が降り続いた。この雨で飯舘村の新田川が氾濫し、農地に仮置きしてあった袋が流されている。11日に82袋が流出しているのを確認し、37袋を回収した。この間行政側では実態の把握が遅れ、翌12日になると240袋、回収が113袋となり、15日の環境省の発表では流出395袋、314袋発見と増えた。発見したうちおよそ半数の163袋が内容物が失われたり袋が破けていたりしたという。残り81袋は行方不明なので、400袋流されて、240袋が環境に放出されたことになる。
環境省は当然ながら、「放射性物質の濃度が低いため、周辺の環境への影響はない」としているが、影響がないのであればなぜ仮置き場に集積していたのかという疑問がわいて、説得力に欠ける。

こういう不安をかかえた「黒いピラミッド」を日常的に見ている人たちは、さぞかし複雑な気持ちであろう。
これに対して、国はどういう危機感をもっているのかと思って、環境省「除去土壌の保管に係るガイドライン」のなかの「大型土のう、フレキシブルコンテナへの収納について」の項を見てみると、フレコンの規格について次のように記してあった。

“(フレキシブルコンテナは)収納する除去土壌の性質・重量や、保管期間等を考慮し、保管が一定の期間(複数年)にわたる場合や、水分を多く含む除去土壌を収納する場合については、耐候性を有する内袋付きクロス形フレキシブルコンテナや、ランニング形のフレキシブルコンテナ、内袋付きの耐候性大型土のう等の耐久性の高いものを用いることが効果的です”

まるで人ごとのような、冷たいガイドラインである。
次に紹介するように、1袋1万1,500円の見積もりを了とするのであれば、もう少し厳しい規格条件をつけてもよいのではないか。

除染は素晴らしいビジネス

“どのメーカーのフレコンバッグを使うかは、実質的には、除染事業を受注したゼネコンの判断に委ねられている。業界関係者によれば、クロス形(内袋なし)のフレコンバッグ1袋の原価は約2,000~3,000円。メーカーの販売価格は5,600円。内袋付き(6,900円)はほとんど使用されていない。JV(企業共同体)側はこの価格に諸経費などを上乗せして国へ1袋1万1,500円(上限)で請求している”
(ビジネス情報誌ELNEOSのホームページから)

当然、こういうことはありえる。
こすっからいとはいえ、これがビジネスというものなのだろう。しかし、飯舘村だけで230万袋である。その差益の金額はすさまじい。中間貯蔵施設の計画フレームは2,800万袋ということだから、全体でみると天文学的な差益となる。

もともと原子力発電所の建設工事は、大手ゼネコンが担ってきた。大規模な工事であるから当然である。たとえば、全54基(運転終了を除く)のうち、鹿島建設29基、前田建設27基、熊谷組24基、ハザマ21基、五洋建設19基、大林組18基、大成建設15基、と続く。これらのほとんどはJVとして受注した実績なので、受注額の順位ではないものの、主だったスーパーゼネコンが顔を揃えている。

ところで、事故後の除染工事にあたっても、これらの大手ゼネコンを幹事社としたJVが軒並み受注した。
飯舘村の場合、環境省発注の除染等工事は、平成24年度から28年度まで7件にわけて出されているが、そのうち25年度繰越の1件は清水建設、その他の6件は大成建設+αのJVが受注している。ちなみに、平成25年度(その2)の契約金額は466億円、26年度(その1、その2の合計)は601億円である。

こういう、マッチポンプのようなビジネスは、気持ちのよいものではない。

除染工事そのものは、原子炉建屋の建設や廃炉作業とちがって、きわめて原始的なものである。
極端にいえば、適切な事務管理能力があってレッカーやバックフォーのオペレータがいてダンプを持っていれば、地元の建設業者が十分に処理できる工事であり、「高度な専門技術」をもつ大手ゼネコンでなくてはできないものではない。実際、直轄以外の除染実施区域では、市町村が発注して事業を行っているし(二本松市では、3.11の翌年6月に市内の土木、建設、管工事、造園など132事業所・団体が集まって「二本松市復興支援事業協同組合」を組織し、市の除染関連事業を受注しているという)、今後延々と続く森林の除染については自治体や住民が自ら行うことが想定されているのである。

汚染されてしまったことはしかたがない。しかし国が直轄区域においてこういう安直な発注を行ってすましているのはいかにも残念だ。
必要であれば除染にかかわる技術研修を行って、地域にそのための人材を育てビジネスチャンスを配分するといった取り組みがあってこそ、本来の復興につながったのではないかと、地元の人たちは悔しがっているのではないか。
平成28年度末までに、直轄と市町村分をあわせれば延べ3,000万人の作業員を動員し、1,600万m3の汚染土壌等を除去したと環境省は発表している。このために、実に2兆6,000億円の予算が使われたのである。

カリカリ置き場

汚染廃棄物を中間貯蔵施設まで運び込むまでの仮置き場は「3年を目処に」ということであった。しかし中間貯蔵施設の見通しがたたなかったせいで、仮置き場は3年を超えてもそのまま延長されてきたために、いまだに「黒いピラミッド」が地域を覆っている。

と思っていたら、いま目に見えるフレコンバッグの山々の多くは、仮置き場でさえもない。仮置き場もままならないので、仮置き場に集結させるまでの“仮々置き場”なのだという。これが6年後の現状である。
最終処分場が決まらないので、しようがないから中間貯蔵施設を設ける。それもなかなか進まないので、仮置き場に仮に置いておくことにする。ところがそれも足りないので、いまは仮々置き場にとりあえず収容する・・・・・・原子力政策の縮図のような光景だ。

中間貯蔵施設は大熊町・双葉町の1,600haに整備することが決まり、平成28年度から本格的な施設整備と搬入が開始されることとなった。容量は、県内で発生する汚染土壌等を1,900~2,800万m3、減容化(焼却)後1,600~2,200万m3と見込んで(可燃物が20%に減容化されると仮定)、全体の収容能力を2,800万m3と計画しており、遅くはなったが、やっと解決したかに見える。
ただし、いまはまだ用地の4割が確保できたのみで、民有地1,270haの買収は目標の1/4にとどまっている。それで搬入はストックヤードと呼ばれる保管施設に「仮置き」し、順次整備する土壌貯蔵施設に平成29年秋頃から貯蔵を開始する、という段階らしい。

震災後6年たった平成28年度末の搬入実績は、大熊町のストックヤードで8万3,000m3、双葉町の同で7万3,000m3、合計15~6万m3に過ぎない。29年度の目標は50万m3、30年度は90~180万m3であるというが、それで累計155~245万m3。環境省は「32年度までに500~1250万m3程度の除染土壌等を搬入できる見通し」としているものの、予断は許さない。
仮に32年度までに累計で500万m3の搬入が達成され、そのペースが維持されるとしても、2,200m3の搬入が終わるのには開始から22年後の平成50年となる。多くの仮置き場は3年どころではないのである。
10年20年はすぐに経つ。
そうこうしているうちに、放射性セシウムは崩壊して減衰していくし、ウエザリング効果もあって、すでに処分しなくてもすむようになっているはず、などと考えているのだとしたら悲しくなる。

さらに言えば、この規模の前提となった発生除染土壌等の算定には、除染対象区域外の森林は含まれていない。これから森林の除染を行ったとして、その汚染した土壌、草木はどこへ持っていくのだろう。

ところで、仮置き場、仮々置き場はその多くが田舎の幹線道路沿いにある。車で走っていると、大量のフレコンバッグを3段4段に積み上げた山が右に左に出現する。あたりには人っ子ひとりいないが、広い平坦な農地で、もとは美田といわれただろう場所である。農地の等級をつければ明らかに優良農地とされるようなところが、軒並み黒いバッグで占領されている。
それも、理由あってのことだ。1トンも2トンもある袋を何千何百も積み上げるには、幹線道路沿いの平坦で広い土地でないと具合が悪いのである。どうせ汚染された農地で作付けをするわけにもいかないと、契約書にはんこを押した農家は断腸の思いであったろう。
もとの農地は表層の沃土がはぎとられて処分され、代わりにやせた山土が被せられる。5年後か10年後か20年後にピラミッドがなくなった後は、一から土作りを始めなくてはならない。

寄り添わない

いろいろと理由があって、まさに「下へ下へ」なのである。

飯舘村は帰還困難区域の長泥行政区を残してこの3月31日で避難指示が解除される。さきの菅野さんは、「わたしは戻りません」と言っている。「戻るのではなく、もとの家でまた新しく始めるのだ」と。

政治家はよく“寄り添う”という心地よい言い方を口にするけれども、この毅然とした覚悟の言葉の前には、そんな上から目線の心地よさは恥ずかしくて吹き飛んでしまう。
わたしはどちらかというと、いろいろな理由があって閉塞を余儀なくされている人たちと、“ともに上へ上へ進もう”と唱和したい気がする。

被災地の現状は、日本の統治制度や産業利権などの縮図である。その様子がよく見える。
実際には、わたしたちの日常も、こういった構図の中に組み込まれているのではないか。実際にはそうなのに、ただ見えないだけではないのか。
そんなことに気がつくと、いよいよ“ともに進もう”なのである。

inserted by FC2 system