category name  »  page title date

除染目標

福島はいま、除染目標を変更するかどうかで揺れている。

そもそもの発端は、現在の目標の達成が非現実的であるとして、2014年2月に福島県知事が見直しを訴えたことだったようだ。
これを受けた形で、6月15日に環境省が開いた「除染に関する有識者との意見交換会」の終了後、井上環境副大臣が「これまでの空間線量から個人の被曝量に着目した新たな除染方針を7月中旬に策定する」と明らかにした。

これは、目標の値切りにあたるのだそうだ。実際に環境省は、これまで目標としてきた空間線量率0.23μSv/時を、0.4~0.6μSv/時前後に引き上げる方向で、自治体と協議を進めているらしい(6月6日日テレニュース)。
これに対し、被災者を中心として地元メディアなどから大ブーイングがおこっているという。
意見交換会に参加した福島、郡山、相馬、伊達の4市長を犯罪者扱いするような言説さえもみられる。

現在の除染目標が非現実的であるということや、もともと過剰な目標水準ではないかということは、これまでもいろいろ指摘されていて、除染先進自治体と言われる伊達市の報告などを見ると、なるほどと納得できる点が多々ある。

政府はそれをふまえて、より現実的で実効性のある目標に是正しようとしている、ということのようだ。

しかしこれまで、国や東京電力といった「専門家」にはずいぶんと騙されてきたので、以下、自分なりに要点を調べてみた。
○○mSvといわれても身体感覚として捉えにくいので、もうひとつ自分のものにならない。生半可な理解のままで緊張をゆるめると、際限なく混乱がひろがっていく。混乱しないように緊張していると、かなりのストレスがかかったが、やっと次のようなことがわかった。

目標はどう表現されているか

特措法による記載

2011年8月に成立、公布された特措法(12年1月全面施行)にもとづく基本方針(11年11月11日)では、国際放射線防護委員会(ICRP)の2007年基本勧告などを踏まえて、次のような目標が提示されている。

○ 追加被曝線量が年間20mSv以上である地域については、当該地域を段階的かつ迅速に縮小することを目指すものとする
○ 長期的な目標として追加被曝線量が年間1mSv以下となること
○ 平成25年8月末までに、一般公衆の年間追加被ばく線量を平成23年8月末と比べて、放射性物質の物理的減衰等を含めて約50%(子どもに対しては約60%)減少した状態を実現すること

これらの目標や区域は、同年8月に原子力災害対策本部が出した「除染に関する緊急実施基本方針」を基本的に受け継いだもので、内容の是非はともかく、方針としては一貫している。

少し噛み砕くと、この目標の前半部分は、たとえば平成23年8月に40mSv/年であった土地の2年後の追加被曝線量は、ほうっておいても放射性物質の物理的減衰と風雨などによる自然減衰(ウェザリング効果)によって40%減り24mSv/年となるのであるが、これを除染によって迅速化し、20mSv/年以下となるようにしよう、と言っているのである。

後半部分は、当初20mSv未満の地域では何もしないのではなく、長期的な目標に向けて、2年後にはいまよりも大人で50%、子どもで60%少なくなるようにしよう、と言っている(物理的減衰などを考慮すると、除染目標はそれぞれ10%、20%となる計算)。

空間線量率への読み替え

ここには、1mSvとか20mSvという数字はあるが、0.23μSvなどという数字はどこにもない。

1mSvとか20mSvといっているのは、年間の「追加被曝線量(自然被曝及び医療被曝を除いた、人が受ける放射線の量)」である。
ところが、実務的な除染の目標には、被曝線量1mSv/年に替えて、それに対応した空間線量率の予測値0.23μSv/時が採用されていたのである。これは、個人管理を行うことが実際的ではないという理由による。

実際、国の除染ガイドラインでは、のっけから「放射線の量が0.23μSv/時以上の地域を『汚染状況重点調査地域』として環境大臣が指定することになります」として、明確に生活空間の時間あたり空間線量率を指標に用いることになっている。逆に、ここには1mSvとか20mSvという数字は出てこない。

基本方針の長期目標である追加被曝線量1mSv/年を見直そうというのではなく、予測値としての空間線量率0.23μSv/時を見直そうということなのだ、というのが環境省の主張のようである。

ここにまず、わかりにくさがある。理屈はわかるのだが、なんとなく言い訳がましく聞こえてしまう。

目標は現実的か

膨大な予算

この当初の目標が「現実的でない」というのが、福島県や環境省の主張であるが、ほんとうにそうなのか。

除染事業には12、13年度の2年間ですでに9千億円が費やされ、原子力資料情報室の試算では0.23μSv/時までの除染に、28兆円を要するという。現在避難している16万人で割ると、一人あたり1億7,500万円となる。
中間貯蔵地のみならず、その前段階の仮置き場の確保さえままならず、スムーズに進んだとしても天文学的予算を要するとあっては、この目標がとても現実的でないという見方は、たしかに当然だと思える。

いつ終わるのか

もしこれが可能としても、それまでに何十年かかるのか断言できる人はいない。セシウムもストロンチウムも、放っておくと30年たってやっと半分にしかならないのである。
被災者は、20mSv/年や1mSv/年ではなく、0.23μSv/時が目標だと言われてきた。
だから、現在仮設住宅などに避難している人たちが、この除染目標が達成されないと帰還しても不安だと思うのは当たり前だし、そうだとすると、被災時に生まれた子どもが成人するまでにもとの家に戻れるかどうかもわからない、ということになってしまう。
これは、とても現実的な目標とはいえない。

何十年もかけて、ひとりあたり2億円近くの除染事業費を費やすのであれば、もうもとの家に帰れなくてよいから、その一部でもいますぐ別の事業に振り向けてもらったほうが、わたしは幸せである、という人がいてちっともおかしくない。
つまり、少なくとも経済的にいえば除染はひどくお金を食う選択肢のひとつに過ぎないのである。個人の選択は、もっと別のものがあってよい。
そういう意味でも、現在の除染プランは決定的に柔軟性を欠いており、現実的ではない。

硬直的な計画

こういうプランの立て方は、官の側の硬直的な責任感によっていると思う。あるいは、なにかの政策を実行するのに予算を使うとすると、いきおい建設投資などを集中的な窓口として、地域経済への還流を図ろうとする、伝統的な「クセ」のなせる業といえようか。

たとえば、治水管理がその典型例である。
流域の治水性能をあげる、すなわち洪水時の被害を最小限にしようとするときに、手法の選択肢はたくさんある。
流域の土地利用管理は、そのなかでももっとも効果が期待される柔軟な手法であり、歴史的には、被害の想定される場所に居住しない、山の保水能力を高める、農地の遊水機能を保持する、などといった方向での努力が重ねられてきた。
ところが現在では、総合的治水などとは標榜しながらも、いっこうにその成果はあがらず、ダムで食い止め堤防で防御することが治水管理だと思われている節がある。
河川管理者は「予算さえいただければ、そうやって守ってあげますから安心してください」と言い、流域住民は、強靭な、すなわち強力だが一定以上の力には脆い装置に守られて、一旦事あれば激甚な被害を被るかもしれない場所に、薄氷を踏むような日常をそうとは知らず営む、という選択肢しかもたされない。

行政というものは、冗長性(リダンダンシー)というものを嫌うものらしい。

目標水準は過剰でないか

過大評価のシナリオ

空間線量率の予測手法

ところで次に、目標水準の空間線量率は、どのように「予測」されたのだろうか。

空間線量率0.23μSv/時は、これから自然由来の放射線量を引いた0.19μSv/時が追加空間線量率となり、それを年に換算すると1.66mSv/年、それに遮蔽物による低減を0.6として追加被曝線量がちょうど1mSv/年になるという計算だ。

目標である1mSv/年から逆算していくと、次のようになる。

空間線量率0.23μSv/時=(追加被曝線量1000μSv/年÷365日÷24時間)÷遮蔽物による低減0.6+自然由来放射線量0.04μSv/時

ここにふたつの係数が介在する。それぞれの係数は、「放射線防護の目的」を念頭に、大胆にはしょったり、丸めたりしているために、出てくる答えはきわめて弾性に富んだものとなっている。問題は、それが偏っていないかどうかである。

遮蔽物による低減

遮蔽物による低減割合は、国の計算方法では0.6とされている。これには根拠があって、屋内では放射線が遮蔽されて、被曝線量は外の空間線量のだいたい0.4くらいと見てよいのではないか、人は24時間のうち16時間くらいは屋内にいると見てよいのではないか、そうすると

0.4×16/24+1.0×8/24=0.6

となるではないか、というわけである。

当然ながら、これは個人の生活パターンによって異なるから、あくまで平均的な想定であるし、素人目に見てもいかにもアバウトな根拠といわざるを得ない。

この遮蔽物による低減割合0.6は先ほどの予測式の中ではきわけてクリティカルな係数であるが、実はこの値には諸説ある。
たとえば、環境省の資料でも引用している伊達市「外部被ばく線量年間実測値の分析結果について」(全市民5万2千人を対象としたガラスバッジによる測定結果)によると、実際の個人被曝線量が、空間線量率からの予測値に比べてかなり低い。およそ半分程度の値となっているから、実測された遮蔽物による低減割合は、0.3程度といってよい。

ただし、面倒なのでバッジは家に置いたままだったという人もいたようだし(これだと遮蔽されっぱなしだから被曝線量が低く出る)、空間線量は実測ではなくヘリによる上空からのリモートセンシングだったので高めに出る、ということで、そうだとすると実際の低減割合は0.3よりももっと高かった可能性がある。
いずれにしても、よくわからない話である。

自然由来放射線量

いっぽう、自然由来の放射線量は、0.04μSv/時とされているが、下道國氏らの計算では東北地方太平洋岸でも0.01~0.05μSv/時と幅があるし、日本全国でみると0.01μSv/時以下のところもあれば大阪や岡山の一部のように0.07μSv/時を超えるような地域もあって、決して一律ではない(「日本の自然放射線による線量」IsotopeNews2013年2月号)。
大雑把にいえば地域によって5~10倍の開きがある。

これを一律0.04としたのもアバウトな話である。もっとも、最後に加算する値なので、結果にそれほど大きくは影響しない。

過大評価シナリオ

要するに、安全側安全側でどんぶり勘定を重ねていくうちに、空間線量率0.23μSv/時という数字が出てきている。目標とする空間線量率がどんどん低いほうに偏っているのである。
空間線量率の「過大評価シナリオ」といわれる所以である。

国が、放射線のリスクとその容認度をどう評価するかという手間のかかる対話を避けて、目標値の大盤振る舞いで国民を懐柔しようとした結果だ、といわれてもしかたがないだろう。

1mSv/年とは、どういう値か

そもそも、おおもとの目標数値である追加被曝線量1mSv/年についても、その実体をよく検討しておく必要がある。いったい、どのような根拠で示された目標なのか、そのリスクはどの程度なのか、という具体的な内容である。

その根拠

大量の放射線を浴びてすぐに亡くなったり火傷を負ったりするのではなく、少ない被曝でも後に突然変異や遺伝障害といった症状が確率的に出てくる、いわゆる低線量被曝の影響については、「これこのとおり」というような証拠をなかなか得にくいのだそうである。
つまり、100mSv/年以下の被曝だと他のリスク要因に隠れてしまうために、疫学的には被曝線量と晩発性影響との因果関係がよくわからない。よくわからないから、100mSv以上の勾配を外挿して直線のモデルを使おう、というのが1mSvの背景になっている。

この値は、もとをただすとICRPの勧告を出所としたものである。
そのICRP勧告は、(ラドンを除く)自然界の放射線による平均被曝線量がおよそ1mSv/年であって、地域によるばらつきもまた同じ程度あるので、この程度の追加被曝は容認できるのではないか、というのが根拠になっている。

これについては、「自然」は必ずしも「望ましい」あるいは「無害」を意味するのではなく、自然に存在する危険を意味しているのであって、上記のような根拠は「現在の危険は2倍になるだろうと言うのと同じである。もし、当局が交通事故の数を2倍にするなどと提案しようものなら、彼らは化け物かきちがいとして非難するであろう」と、すでに1970年にG.R.テイラーが指摘している(「続・人間に未来はあるか」大川節夫訳、みすず書房)。たしかにそうだ。

さらに、1mSv/年のところに自然の閾値があって、それ以上が危険でそれ以下が安全、というわけではもちろんない。閾値というものはないはずだ、ということは、1981年にジョン・W・ゴフマンが「人間と放射線」で明解に論じていて、「あるDNAが損傷を受けるのは、1個の放射線が打撃を与えるか与えないかによるのであって、放射線の総量によるのではない」という主張には、説得力がある。

これに対して、疫学的に証明されないのだから、閾値がないとはいえないのではないか、むしろ一定線量以下の被曝は健康によいのではないか、といった意見もいまだに根強くある。3.11以降に出された原発推進派の本にも、たいていこのことへの言及がある。
しかし、わからないから影響がないことにしよう、ひょっとしたらよい影響があるかもしれないではないか、というような言説は、この問題に関してははなはだ慎重を欠く意見であり、無責任かつ乱暴な言い方ではないか。わかった範囲のところを外挿して想像するようにしよう、という姿勢と比べると、格段の開きがある。

これらのいわば傲慢な反対論が、テイラーやゴフマンらの警告に対して半世紀近くも生きながらえてきたのには、どういう背景があったのか。もし、人間に未来があるとすれば、必ず歴史がそれを断罪するだろう。

そのリスク

ところで、1mSv/年というのはどの程度のリスクなのだろうか。

まず、癌による死亡の確率がどれくらい上乗せされるのか。
ICRP勧告では、100mSvの被曝は生涯の癌死亡リスクを0.55%上乗せするとしている。1mSv/年で10年間被曝すると、0.055%上乗せされるという計算だ。
また、放射線による一般人の年あたり致死癌死亡確率は1Svあたり5%と推定されている(一般財団法人高度情報科学技術研究機構のレビューによる)。1mSvにこの確率をあてはめると、人口10万人あたり5人となる。
2012年に癌で死亡した日本人は36万人、人口10万人あたりに直すとおよそ290人である。生涯癌死亡リスクは21%となっている(国立がん研究センターがん対策情報センターによる)。


いっぽう、放射線以外のリスクはどうかというと、同機構の解説の中でたとえば次のような年あたり死亡率の数値が紹介されている(原出典は岩崎民子氏1987年、人口10万人あたりに換算)。

自動車事故 11
墜落 3.4
火災 1.1
天災 0.2
溺死 2.7

これは少し古いので、ちなみに2012年の人口動態調査で「不慮の事故による死亡率」をみると、次のようになっている(対人口10万人)。

交通事故 5.1
転倒・転落 6.2
生物によらない機械的な力への曝露 0.5
不慮の溺死及び溺水 6.3
その他の不慮の窒息 8.2
煙、火及び火炎への曝露 1.1
熱及び高温物質との接触 0.1
自然の力への曝露 1.6
有害物質による不慮の中毒及び有害物質への曝露 0.6
その他 2.8

つまり、1mSv/年という被曝線量率のリスクは、たとえば交通事故によるリスクとほぼ同等で、転落・転倒や溺死、窒息などで死亡する確率のいずれよりも低い。
ただし、「ほぼ同等」というのは、同じ程度だというのではなく、同じ程度のリスクが追加されてしまうということを意味する。

被曝によるリスクの特殊性

以上のリスクが、大きいとみるのか、なんだわずかなものだとみるのかは、なかなか難しい。
まず、こうした、癌死亡率の増加や、他の事故による死亡率との比較などだけから被曝のリスクを論じるのは、一面的に過ぎるのではないか。放射線の被曝は、他のリスクと比べてきわめて特殊な性格をもっているからである。

第一に、被曝による死亡は、他の要因による場合とちがって、自分の不注意や覚悟のもとで遭遇するのではないし、自分でそれを少しでも避けるような方策を講じることはできない。自分のせいではなく、まったく別のところからいきなりもたらされる災難なのである。もっと言えば、誰かほかの人が得をするための犠牲になったのである。東京電力管内の電力供給のために、福島県民の死亡リスクが生じたというのが、このことをきわめて明解に物語っている。

第二に、リスクは死亡だけではなく、発症とその後の闘病という、個人の人生を大きく変えてしまうような場合も考えるべきで、そのようなケースは死亡率の背後にさらに広範に存在する可能性がある。

第三に、それは一瞬に起こるのではなく、将来の確率的影響として、じわじわと可能性が継続し、いつか発症するかもしれない、いつかそのために死ぬかもしれないという恐怖を抱え続けさせられるのである。そのストレスは、放射線の直接的な影響以上に癌リスクとなっているのではないか、とはよく指摘されていることである。

さらに難しい原因には、そもそもこのリスクが大きいか小さいかを誰が評価すべきなのか、ということがある。
当然ながら、それは被曝した、あるいは被曝するかもしれない個人本人である。その人のそれまでの生活史、日常生活の様式、これからの人生設計をすべて背負ったうえで評価が行われるのであって、けっして平均的な評価というものがあるわけではない。
ただ、政策目標として組み立てようとすると、個人個人の評価結果を積算したうえで、国民全体で共有できるような「容認」基準を構築する必要がある。だから、難しいのである。

ふたたび0.23μSv/時とは

もう一度、0.23μSv/時にもどろう。

さきの予測式をみて明らかなように、空間線量率を計算する根拠となっている数値は、追加被曝線量以下、すべて有効数字1桁である。
1桁の数値を1桁の数値で除し、さらに1桁の数値を加算している。それらの1桁についても、はなはだアバウトであって、ひょっとすると0.5桁以下かもしれない、ということは先にみたとおりである。
それにもかかわらず、結果が0.23といういかにも有効数字2桁の数値になっているというのは、いかがなものか? これは、実におかしい。あえて言えば、噴飯物である。

かりに、1mSv/年はおおもとの目標数値なので有効数字は問わないとしても、0.6はいかにも「えいやっ!」の値であるが好意的にみて0.55~0.64の意、0.04は0.035~0.044の意だとすると、予測値は最大で0.25、最小で0.21となる。けして0.23ではない。
これに実は0.6は0.15~0.64、0.04は0.01~0.05だと言われると、予測値は最大で0.81、最小で0.19となる。

こういうなかでの0.23だということは、しっかり理解しておく必要がある。


もっともらしい数値を名目として掲げ、それをみんなが信用するふりをして金科玉条のように運用する習慣は、江戸幕府が用いた各藩の石高をやたら精密に積算して以来の、長い歴史をもった習慣である。
余談だが、たとえば元禄期の日向国の石高は、30万9954石5斗2升8合1勺7才(有効数字11桁!!)であったという。

1mSv/年から換算して0.23μSv/時などという数値は、そもそも1mSvの確からしさを度外視したとしても、いかにもいかがわしい。
役人が机の上でいじくりまわした数字に、被災地のひとたちが振り回されている、といえなくもない。

まとまらないまとめ

少しは誤解があるかもしれないが、やっとこさ、ここまでわかった。

いろいろなことがわかったものの、「だからこうすればよい」などと言えるほどの度胸は、わたしにはない。むしろ、混乱は収まらないどころか、より混迷の度を増している。
ただ、この過程でむしゃくしゃする点がいくつかあった。そのことに多少感情的に言及して、まとめに替えたい。

まず、除染目標を枝葉末節とはまったく思わないが、逆にこういう議論に明け暮れていてよいのだろうか、と正直考えさせられた。
そもそも、1mSvということ自体がきわめて大雑把な根拠にもとづいている。政策目標としては、何かを決めないといけないから、とりあえずそうしよう、という意味では、ここをほじくるべきではないかもしれない。

ところがこれを巡って、1mSvを空間線量率に読み替える方式を修正しようという意見だけではなく、1mSvという目標設定自体が過剰であるとして、これをたとえば5mSvに修正したらどうか、というような意見もある。空間線量率に読み替えるのではなく、個人の被曝線量をきちんとトレースすべきだという意見もある。除染に28兆円もかける気であれば、これも非現実的とはいえないだろう。まさに、百家争鳴である。
そこにさらに、0.23μSvだ、いや0.4だ、0.6だといった声が飛び交って、混乱をきたしている。

放射線被曝の許容量については、すでに半世紀以上も前に「安全を保障する自然科学的な概念ではなく、有意義さと有害さを比較して決まる社会科学的な概念であって、むしろ『がまん量』とでも呼ぶべきもの」と喝破され(武谷三男)、その思想はICRPにも反映されているはずではないか。
つまり、これは科学の問題ではなく、政治の問題なのだ。それを、いかにもエビデンスの問題であるかのごとく、科学的根拠をめぐって議論が戦わされている。官民そろって理科系かA型になったかのごとしである。
こういう複雑な状況を構えて、当事者たちに大局を見失わせるような、不信にもとづく綱引きを強いているのは、なんのためなのか。

さらに言うと、いま目標値を見直そうとして論議を呼んでいる原因はどこにあって、誰の責任なのかということが脇に置かれたままだということが、わたしは気に入らない。

おそらく、環境省は除染の「現実性と効率性」という点から1mSv自体を見直したいのであろう。そこまではやりにくいから、「実は空間線量率の予測のしかたが間違っていました」という姑息な言い方で方針転換を行おうとしている。
除染が遅れた場合の避難生活への影響、いまの除染目標が達成されないまま帰還した場合の健康リスク、これからの個人の選択肢の拡大とそれへの支援の方法を、腹を割って相談し、これまでの除染プランのどこがまずくて、誰が謝るべきなのかを明確にする、という作業がほんとうは一番求められているはずだ。
それを置いておいて、ふたたび新しい目標値で一律に編み掛けし、建設企業に作業発注を行って「国が責任もって安全な土地にもどしてあげます」というようなやりかたを進めるのなら、これまでと何も変わっていない。

除染の作業は、住民が帰還した後も営々と続く性格のものである。それは、被災地の宿命ともなってしまった。
そういう未来の中で、持続可能なスタイルをどう展望すればよいのかが、帰還住民の一番の課題であろう。
そこにコミットできない除染プランは、海とのつきあいを度外視した防潮堤や、沖積低地や干拓地に人を住まわせる堤防や、危険な山腹に家を建てさせる砂防ダムなどと、変わるところがない。

福島第一の事故で、政府も東電もひとりも責任を問われなかったことが問題視されているが、除染をはじめとしたその後の対応も、同じような歩みを見せている。
ここには、原子力政策がつねにはらんできた倫理上の問題、要するに「いかがわしさ」というものが凝縮されているように思える。

inserted by FC2 system