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大飯原発運転差止め判決

大飯原発運転差止め判決は、きわめてインパクトの強いものであった。
たくさんの人がこれに対して賞賛の言葉を発している。
この判決は、きわめてわかりやすく、よい意味で常識的で、おそれず正論を述べている、というのが大方の感想である。
いまさら、同じような意見を述べても枯れ木の賑わいにすぎないことは承知の上で、わたしも一応賛辞を記しておきたい。こういうのは、雨あられのように浴びせておくのがよいと思う。その一滴として。

判決の内容

震災後全原発が停止する中で、2012年6月に当時の民主党政権が関西電力大飯原発3、4号機の再稼動を決め、7月に相次いで再起動されたことは、再稼動決定時の野田首相の無表情な顔とともに記憶に新しい。

これに対し、安全性の保証をせずに再稼動させたとして、2機の運転差し止めを求めた住民訴訟の判決言い渡しが、2014年5月21日福井地裁民事第2部(樋口英明裁判長)であった。

判決主文の1は

被告は、別紙原告目録1記載の各原告(大飯原発から250キロメートル圏内に居住する166名)に対する関係で、福井県大飯郡おおい町大島1字吉見1-1において、大飯発電所3号機及び4号機の原子炉を運転してはならない

というものであった。

主文につづく「事実及び理由」では、原子力発電所の仕組み、大飯原発の構造、使用済み核燃料の保管方法、安全性審査の経緯・方法等々からはじまって、チェルノブイリ原発事故、福島原発事故などについて詳細にレビューし、各争点に対する原告、被告の主張を紹介したあと、「当裁判所の判断」が30ページにわたって記されている。

そのなかで、記憶しておきたい部分。

人格権は憲法上の権利であり、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。したがって、この人格権とりわけ生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、その侵害の理由、根拠、侵害者の過失の有無や差し止めによって受ける不利益の大きさを問うことなく、人格権そのものに基づいて侵害行為の差し止めを請求できることになる。

原子力発電所の稼動は法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由に属するものであって、憲法上は人格権の中枢部分よりも劣位に置かれるべきものである。

原子力発電技術の危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通じて十分に明らかになったといえる。本件訴訟においては、本件原発において、かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる。

(「冷却機能の維持について」「閉じこめるという構造について(使用済み核燃料の危険性)」についての被告側の主張をことごとく退けて)
本件原発に係る安全技術及び設備は、万全ではないのではないかという疑いが残るというにとどまらず、むしろ、確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに初めて成り立ちえる脆弱なものであると認めざるを得ない。

当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。

コストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。

被告は、原子力発電所の稼動がCO2排出削減に資するもので環境面で優れている旨主張するが・・・福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。

賛辞

わたしは、他の大勢の人たちとともに、この判決を支持する。

この判決は、少しバランスを欠いているように見えるかもしれない。人格権がすべてに優位だとし、他の条件をネグレクトして人格権が少しでも侵害されるものはすべてアウト、と言っているように聞こえるからだ。

実際「リスクゼロしか認めないというのは非科学的で、逆に危険な安全神話を助長する」というような批判もあった(たとえば、産経新聞の5月21日林佳代子記者署名記事、読売新聞の5月22日社説、日本原子力学会が5月27日に発表したコメント、産経新聞の6月3日正論における経団連21世紀政策研究所研究主幹澤昭裕氏の記事など)。

しかしそれは違うと思う。

この判決の主張するところで肝心なのは、電気代とか、貿易収支とか、そういった数値化できるリスクと、人格権の侵害という数値化できないリスクとをきちんと天秤にかけて、後者が優位だとした点であろう。実際に、その侵害の「具体的危険性が万が一でもある」か、という判断に大半の精力を費やしている。

少なくとも、被告側の主張には、このような態度はみられない。被告は、人命にかかわるリスクが、経済的リスクに比べて小さいのだ、ということを堂々と主張し、その主張が受け入れ可能かどうかを世の中に問うべきだったのではないか。
さらに、「危険な安全神話を助長する」というのは、噴飯ものである。安全神話はたしかに危険であるが、安全だというプロパガンダを生み出している主体は、大衆ではない。まさに「助長する」といっているあなたたちが生み出してきたのだ、といいたい。
これまで、そうやって生み出されてきた安全神話は、まさにゼロリスクを装ってきたのではないか。過酷事故は「万が一」にも起こるはずがないとして、その対応に手を抜くことに加担してきたといわれてもしかたがないと思う。

余談ながら

なお、被告の関西電力は、判決言い渡しの法廷に弁護士を含めて全員欠席したうえで、即時控訴した。
関電の八木社長は、控訴したので判決は確定せず、理論的には、定期検査で停止している3、4号機の高裁判決前の再稼動もありえる、という趣旨の発言をしている。

この判決と関電の態度との倫理的格差は、ながく記憶にとどめておく必要があるだろう。

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