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松山東高校明教館

わたしがコーラス部員であったかどうか

わたしが松山東高校に在籍したのは、昭和38年から41年の間である。
コーラス部員としての「個人的な思い出を」といわれて、部の同窓会ニュース・レターに起稿することになったのだが、よく考えてみると、わたしが正しくコーラス部に所属していたかどうか、確信がない。

あの頃のクラブ活動は、少なくともコーラス部については、部員かどうかを画然と規定するという風ではなかった。
わたしは、ブラスバンドでトランペットを一所懸命吹いていた。それで、ブラスバンド部であったという自覚は大いにある。
ちなみに、大変上手であった。その後、大学でオーケストラにはいり、トランペット吹きの憧れる曲をたくさん演奏させてもらったが、なかでもアンドレ・ジョリベ作曲の「ピアノとトランペットとオーケストラのための小協奏曲」(曲名はすでにうろ覚えであるが)を小林研一郎氏の指揮で、杉並公会堂で本邦初演したことが、いまだに自慢である。もう40年近くも前のことではあるが。

明教館(松山東高校HPから)

お話しをもとにもどすと、文政11年築、藩校時代の面影を残す明教館は、当時すでに歴史的建造物であったものの、音楽関係を中心にいくつかのサークルが共用していて、放課後はそれぞれのメンバーが入り乱れて使っていた。
よく、あの広い縁側に立って、ロングトーンやタンギングの練習をしたものである。
しかし、コーラス部が練習する時には音が出せないので、中に混じって一緒に唱ったりしていた。ついでに、2、3度はコーラスの本番ステージに立ったことがあるかな、という記憶もなくはない。だから、お前もコーラス部だったろう、と言われると、否定できない嬉しさがある。

ちなみに、わたしが卒業した後のことではあるが、わが東高コーラス部は大いに隆盛を誇り、昭和51年のNHK全国学校音楽コンクールで最優秀賞に選ばれている。

明教館はぼくらの遊び場だった

明教館では、楽しく遊んだ。奥の方の床板をはがして、あの高床の下に椅子や机を持ち込み、「アジトだぁ」とか言って篭ったりしていたが、あれは何のつもりだったのだろう。

隣の住宅には、用務員さん一家が住んでいた。奥さんにタオルを借りて、練習の合間に道後温泉の本館につかりに行ったりしたことも思い出す。小学校にあがったばかりの可愛い娘さんがいて、一緒に遊ぶこともあった。彼女も今はもう孫がいても不思議でない。

なんと言っても圧巻は、いつかの夏休み中に開いたコンサート・パーティーである。

明教館仲間がそれぞれ得意のレパートリーを持ち寄って、内輪の演奏会を催した。氷柱を立て、花を飾り、近くのお好み焼き屋さんから借りてきた機械でかき氷を作り、プログラムを印刷して、誰もいない学校で心置きなく騒いだ。
プログラムに刷り込んだ出演者名は、”太政大臣松波金管左右衛門龍一”とか、”金魚院中宮育子の方”とか、ふざけた名前だったのだが、いまだにこんな些末なことを覚えているというのは、わたしの人生でそれだけ濃い意味があったということなのだろう。少なくとも、アンドレ・ジョリベの曲の名よりも、記憶すべきものであったということになる。

それぞれの明教館

わたしは今、広島で仕事をしている。仕事のかたわら、ここ20年近く続けてきた遊びがふたつある。

ひとつは”日本焚火学会”。1993年に始めた。わがやに集まって、ひたすら焚火にあたる、というだけのことなのだが、毎回100~150人の仲間が集まる。全国からというのはオーバーだが、東京や九州など結構遠方から参加する人もいる。なぜわざわざ来るのか不思議だが、理由は本人にもわからないだろう。

もうひとつは”カフェテラス倶楽部”。1995年から始めたが、毎月1回、広島の平和大通りの緑地帯を占拠してオープンカフェを開くというもの。これも、ひたすらコーヒーを飲む、というだけのことなのだが、とうとう18年も続いてしまった。

気がつくと、なんだ、明教館を延々やっているな、という思いである。

あの夏休みのコンサート・パーティーに集まった仲間の人たちは、あの時のことを覚えているだろうか? それぞれにとって明教館が何であったのか、その後の年月、どんな明教館をやってきたのか、それで何を得たのか、じっくりと語り合いたい思いに駆られる。

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