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岡本太郎

手許に、「今日の芸術(光文社、1954年、岡本太郎著)」という本がある。

大阪万博の直後、突然、岡本太郎講師の「彫塑」という講義が開講された。期待して集まった学生たちが、立ったり座ったり思い思いの格好で氏を取り囲む中、ソファにのけぞって開口一番言われたことが大変印象に残っている。

「わたしは、君たちに講義なんかしたくなかったんだが、タンゲがどうしてもと言うもんだから来てやったんだ」

続いて「旅は神聖なものだ。薄汚い切符を買って、狭い改札口を通って列車に乗らないと旅ができないとは、けしからんことである。君たちは、そう思わないといけない」といった、およそ彫塑とは縁のない話題を、滔々と話して帰られた。
その間、氏の後ろに黒服の付き人が直立不動で立っていたのが、これまた印象に残っている。

学生のわたしは、その型破りな講義とバサラなスタイルにいたく感銘を受けた。
おそらく、その後に入手して読んだのが、本書である。副題は「時代を創造するものは誰か」となっている。
奥付には昭和廿九年九月十日四版発行(初版は八月五日)とあるので、当時すでに古書店の棚に並んでいたのを購入したものに違いない。

「芸術は『きれい』であってはならない」から始まる太郎流の「価値転換」原則が、ここですでに熱っぽく語られている。不用意な常識を片端からなぎ倒そうとしているのだが、その語り口は明晰で、いささかも乱暴ではない。

太郎は本書出版の2年前に『みずゑ』誌上で「縄文土器論」を発表している。「縄文土器にふれて、わたしの血の中に力がふき起るのを覚えた」と述べて日本美術史を書きかえるとともに、その後の創作にもその「力」が色濃く反映されているのだが、不思議なことに本書では、その縄文にまったく触れていない。いかなる抑制があったのか、興味あるところである。

詩人の宗左近は「日本美ー縄文の系譜」の中で、南北朝時代の守護大名佐々木道誉の所業をこと細かく紹介し、バサラの美学は「中世に噴出する縄文」であり、その本質は「正気の物狂いである」と語った。それに倣えば、岡本太郎は「昭和に噴出した縄文」と言えるのではないか。

創造には、技術や計算や根気がどうしても必要なのだが、その根本に、人の心を燃え上がらせるような「物狂い」のエネルギーがなくてはおもしろくない。都市計画という創造行為が、どんなエネルギーに依拠すればよいのかを考えるうえで、示唆に富む本である。

本書は、99年に光文社文庫として復刻されている。

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