category name  »  page title date

教える

都市工学

若くして亡くなった恩師のO先生は、

「都市工学は、教えることのできないたくさんの部分と、教えることのできるわずかな部分とで成り立っている」

と、名言をはかれた。

たとえば、地図を描くときにどんな線をひくとよいか、などというのは、教えることのできるわずかな部分に属する。
小学校区の地図のうえに、地域の主な目印と、注意したい危険な個所を表現したい、といった場合に、どうすればよいか?

まず、どんな地図をどこで入手すればよいか。
市役所の都市計画担当のところに行けば、適当な縮尺の白図を必ず購入できる。それに、とりあえずはフエルトペンのような太めの筆記具でくっきりと書くとよい。
その作業をする際に、地図を机にどのように置いて止めればよいか、壁に貼るときには、たとえばテープをどのように使えばよいか、フエルトペンはどんな色を使えばよいか、説明の文字はどういう風に書くと読みやすいか、等々、知っているととても楽しい。
どうやって「危険な箇所」の情報を集めるか、というノウハウも、いろいろと応用がききそうだ。

でも、こういったことは簡単に教えられそうなことなのに、逆になかなか教えてもらえない。

○○市民塾のようなところに顔を出しても、まちづくりの成功例や制度の整理学を聞かされることこそあれ、用紙の選び方とか、はさみの持ち方などは教わることがない。

教えることのできること、できないこと

こういうことは、都市工学に限らない。

中学、高校の音楽の時間で覚えているのは、楽譜の読み方とか、有名な作曲家の名前や、見たこともない楽器の名前とか、むつかしいことが多かった。
歴史の時間でも、大化の改新ムシゴヒキとか、イイクニつくった頼朝公とかは覚えているが、大化の改新や鎌倉幕府が、もっといえば歴史というものがどんなに面白いものか、ということについては、ついぞ習わなかったような気がする。
でも、先生たちは音楽が面白い、歴史が面白いと思ったから教師になったんでしょ?

おそらく、高邁なことが教えるに値するのであって、ちょっとしたコツや楽しみかたなどは些末で教えるに値しないように見えるのだろう。
しかしえてして、教えるに値することは、教えることのできない事柄であることが多い。逆に、教えるに値しないようなことでも、教えることが可能で、教われば効果が大きいというようなことがたくさんある。

しかし、教えることのできない部分を一所懸命教えようとして、教えることのできる部分を教えないような風潮があるのは、いかがなものか。
まちづくりの成功例をいくら聞かされても、せいぜい闇雲な元気がわくだけで、成功にいたるさまざまなプロセスに対する想像力がなければ、なんの役にもたたない。
その想像力は、実際に自分が手を動かし、足を動かして活動してみてはじめて養えるものではなかろうか? 教えるべきなのは、教わることのできない何かを、現場に立って自分の体で学んでいくためのノウハウなのである。

「まちづくりのつくりかた」

実は、というような思いがあって、友人で都市計画を専攻している大学の先生と語らい、「まちづくりのつくりかた」という本を出そうではないか、と盛り上がったことがある。
そこでは、「まちづくり」そのものについては、一切語らない。それは、教えることのできない部分であるからだ。

書くべきことは、たとえば「糊の使いかた」「画鋲の押しかた」「コピーのとりかた」「地図の貼りあわせかた」「製本のしかた」からはじまって「助成金のさがしかた」「後援依頼の書きかた」「会費の集めかた」「企画書の書きかた」「会合案内の出しかた」等々、徹底的にハウツウでいこう、ということになっていた。

これは、われながら画期的な思いつきであったが、お互いのなまけ性が災いして、いまだに実現しないままである。残念なことである。

inserted by FC2 system