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パパラギ

サモア諸島を地球儀で見ると、南太平洋のまっただなか、南赤道海流の中に、トンガやフィジーと一緒に群れあうように小さな島々が点々と浮かんでいる。
ウポル島は、サモア独立国を構成する九つの島のうち、二番目に大きい島で、昔海底火山が隆起して生まれた。佐渡島より一回り大きいこの島の中で、ひときわ辺境の海岸にティアベア村がある。

この村に、かつてツイアビという酋長がいた。いまから百年ほど前のことである。

あるとき彼は視察団の一員として島を出て、欧州の国々をつぶさに観察してきた。
その経験をもとに、ポリネシアの人々に語りかけようと用意した手記が“パパラギ -- はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集”(エーリッヒ・ショイルマン著/岡崎照男訳)である。
“パパラギ”とは、白人のことである。
どのページをめくっても、きわめて明晰なパパラギの文明批判に満ちている。

「たくさんの島々の愛する兄弟たちよ。物とは何か、おまえたちに告げよう」と彼は語りかける。

「物がたくさんなければ暮らしてゆけないのは、貧しいからだ。パパラギは貧しい。だから物に憑かれている。物なしにはもう生きてゆけない」

「熟したヤシは、自然に葉を落とし実を落とす。パパラギは、葉も実も落とすまいとするヤシの木のように生きている。『これはおれのものだ! 取っちゃいけない! 食べちゃいけない!』どうすれば、ヤシは新しい実を結ぶか。ヤシはパパラギよりもずっとかしこい」

「パパラギは自分の仕事について話すとき、まるで重荷におさえつけられたようにため息をつく。だがサモアの若者たちは歌いながらタロ芋畑へいそぎ、娘たちも歌いながら流れる小川で腰布を洗う」
(以上、同書から)

さらに、パパラギは頭で考えることに酔っ払っているが、それは大まちがいだ、と彼は言う。かしこいサモア人なら、頭では何も考えず、皮膚や手足に考えさせるのだ、と。

というのは実は、当時独領だったサモアに1年間滞在したドイツ人画家ショイルマンの完全な創作であるらしい。

アメリカ先住民の首長シアトルのスピーチとして伝わる内容を編集・翻訳したという“父は空 母は大地―インディアンからの手紙”(寮美千子編訳/篠崎正喜画)は、

「大地は わたしたちに属しているのではない。 わたしたちが 大地に属しているのだ」

といったような名文句がちりばめられていて、エコロジストのバイブルにもなっているという。
ところがそれがほとんど創作に近く、シアトルのスピーチがあったこと自体疑わしいとか、なぜスピーチが手紙になるのかとか、メディアリテラシーにもとると“偽書”のレッテルを貼られて、論争にもなっている。

これに対してショイルマンは、“編訳”などという細工もせず、創作である旨の断りもなく、あたかもツイアビが実在したかのように装って、こちらのほうがよほど“偽書”である。

このふたつを比べてみてもしようがないが、いずれも偽書かどうかの詮索に終わるのはもったいない。誰が言ったことかはともかく、そこで語られた世界観がどういう刺激を与えてくれるか、という点に注目したい。
シアトルの演説は、そういう意味では(少し言い過ぎかもしれないが)美辞麗句を連ねたもので、感情に訴えることはできそうだが、なかなかこちらの行動規範にはなりにくい。
これに対してツイアビの演説内容は、そういう“揉み手”の甘さがなく毅然としていることが共感を呼び、偽書論争などという下世話な重箱の隅つつきを遠ざけているのではないか。

と言ってしまうとこれも少々言い過ぎではあるが、少なくとも、近代文明の恩恵の中にいてのうのうとしているわたしの鬱屈した憧れを語って余りある。
競争と搾取と蓄財に走る、ヤシよりかしこくない世界への軽蔑と、歌いながらタロ芋畑に通うサモアの人々への強烈な愛情は、ぜひとも自分のものとしたい態度である。

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