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トゥピナンバ族

フランス人のジャン・ド・レリーという人は、1557年、22歳のときに10ヶ月間ブラジルに滞在し、後に22章に及ぶ「ブラジル旅行記」を残した。その翻訳版は岩波書店の「大航海時代叢書」に所収されている。

そこには、現地の「未開人」であるトゥピナンバ族のことが克明に記録されている。彼らが小鳥に語りかけるときの歌や魚のことを歌った歌などまでが、楽譜つきで紹介されたりしていて、読んでいて飽きない。

大航海時代は、西洋社会の欲望が全世界を蹂躙した時代だった。
コロンブスやマゼランの率いたスペイン艦隊は、儲かる東洋貿易のための西回り航路をさがして西行し、途中上陸した島やアメリカ大陸で、インディアンを虐殺し、奴隷として捕獲し、略奪を繰り返している。
これに続く大勢のコンキスタドール(征服者)たちも、同様の、あるいはそれらを上回る悪行を重ねた。その頃の話しである。

国名の由来となった「パオ・ブラジル」という木は当時、染料として商品価値が高かったのだそうだ。それで、ポルトガル人やフランス人が現地人の助けを借りて、大量に伐採し、港に運んで船積みをしていた。
その量に不審を抱いた古老がレリー氏に尋ねる。「おまえの国には薪がないのか」「いや、染料に使うのだ」「なんであんなに大量に必要なのか」「商人が買い付けるのだ」といったようなやりとりがあって、やっと理解した古老は、次のように総括する。

「おまえらは馬鹿だ。さんざん苦労して、子孫のために富を貯めてどうする。おまえたちを養った土地だけでは、子孫を養うのに不足なのか? わしにも子どもや身内がいるが、わしが死んでも全然心配がない。この土地があれらを充分に養ってくれるだろう。だから、なんの苦労もない」

レリー氏は別のところでトゥピナンバ族のことを「人間不信やそこから生まれる貪欲、訴訟沙汰や仲違い、羨望と野心などによってわれわれは苦しんでいるが、彼ら未開人はそういうものと無縁である」とほめ上げているが、それだけのことであれば、ヨーロッパ人は出かけた先でつねにそれを発見しつづけたのである。
それから330年後のラフカディオ・ハーンにいたっても、日本の地方都市の「洗練された文化」に感嘆し、エキゾチックな感慨を余すところなく書き残している。その眼差しは、レリーがトゥピナンバに向けたものとほとんど同じだ。

古老の語ったことばで大切なことは、持続に対する意思であり、ブラジルの歴史で着目すべきことは、その古老の種族がこの後数十年を経ないうちに、コンキスタドールたちによって「絶滅」させられた、ということである。

「マゼランが来た(朝日文庫、本田勝一著)」には、その後のトゥピナンバ族のことが詳しく紹介されている。それによると、1568年にポルトガル軍がリオデジャネイロ近辺のトゥピナンバ系タモイオ人を襲い、女子供を含む何千人もを皆殺しにしたことにはじまり、その後無数のトゥピナンバ民族集団の虐殺と捕虜化を繰り返したあげく、16世紀末までにトゥピナンバは根絶されたという。

コンキスタドールたちは、彼らの「黄金郷」を求めてその挙にでたのであったが、「桃源郷」の営みは、その欲望の前に跡形もなく踏み潰されてしまった。

これは、遠い国の昔の話しとは限らない。
人々の欲望を呼び覚まし、がむしゃらな元気を鼓舞するようなプロパガンダは、往々にして、目標も定かでないままに疾走し、つつましく誠実に生きようとする民衆の幸せを踏みにじるものだ。

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