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運動会

運動会!

わたしの松山東高校時代の思い出の中で運動会は特別のものだ。とても濃くて、青春のいろいろなモヤモヤを忘れて、とことん純粋に楽しんだ一大イベントであった。
なにを楽しんだか。
当日もさることながら、それまでの何週間か何ヶ月かの準備期間中、それにおとらず全力投球できるのがうれしくてしようがなかったのである。
特別のものだといいながら、なんせ半世紀も前のことなので、細部の記憶はどこかへ飛んでしまっている。目に浮かんでくるのは断片的な記憶ではあるが、細部が飛んでしまった分それぞれの断片が-----とても濃い。

松山東高校の運動会は、全校生徒が黒潮、紅樹、紫雲、青柳という4つのグループに分かれて開催されるものであった。
自分がどのグループであったのか、どうも思い出せないものの、2年生のときか、3年生のときか、グループの櫓と観覧席をつくるために、材木屋さんに足場用の丸太を借りる交渉に行ったことは覚えている。
グループごとに、搬入された丸太をみんなが力をあわせて荒縄でしばりつけ、段状に足場板を並べて、1グループ数百人が座ってどんどんできるような観覧席を組みたてた。これが4基、トラックを取り囲んで並ぶ。
われわれのグループは観覧席の横に立てた櫓の中に、はりぼてで巨大な鎧冑をつくり、声援にあわせてそれを立ったり座ったりさせる。そのためのロープを、後ろで大はしゃぎしながら級友たちと引いたり離したりしていたのが昨日のようだ。

まあ、とにかく天真爛漫に大遊びをやらせてもらったのだが、その間のたとえばコストのコントロールなどは誰がどのようにやったものか。先生方は、さぞヒヤヒヤものであったろう。

それに、考えてみれば物理的にも危険きわまりない。しばり方が悪くて観覧席が崩れるかもしれないし、ロープを引っ張りすぎて鎧冑が倒れ、みんなの上に落ちるかもしれない。実際に、どこかのグループの観覧席は当日の応援中に突然崩れたのである。ひな壇が崩れ落ちるのにあわせて、乗っていた生徒たちが雪崩れをうつように地上に放り出されるのを、他のグループの全員が目撃した。「わおっ~」という喚声とともに、その雪崩れのシーンがいまでもスローモーションの映像となってよみがえる。

その後特段の後日談があったという記憶がないので、おそらく怪我人はでなかったのであろう(怪我したのだという人がいたら、すみません)。負傷者がいなくても、いまなら翌日の新聞をにぎわせて、校長先生や教育委員会の謝罪コメントが出るような出来事である。ひょっとすると、危険なので来年からはこういう運動会はもうやめます、などということになるのかもしれない。

こういう大らかさは、あの時代特有のものだったのか、それとも東高の伝統であったのか。
たとえば、当時すでに歴史的建物であった明教館は、いろいろな文科系サークルが入り乱れて好き勝手に利用していたし、なかには床板をはがして床下に部屋をつくったりする不埒な生徒もいた(わたしのことですが)。他の稿でも書いたように、明教館は東高の前身の藩校時代、文政11年築の由緒ある建物であって、わたしたちが遊んだ直後の昭和44年に愛媛県指定の文化財になっている。
ブラスバンド部に所属していたわたしなどは、おそれ多くもこの明教館を拠点にして道後温泉本館に通ったりしたものだ。

そういう空気の中で、わたしたちはずいぶんと大切なことを学んだ気がする。自分たちの楽しみを自分たちでマネージメントすること、リスクは自分たちで負うこと、人のせいにはしないこと・・・・・こういう当たり前のことを、ヒヤヒヤしながら学ばせてくれた先生方にいまさらながら頭が下がる。

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