先日テレビで、たまたまモーツァルトのクラリネット協奏曲第2楽章を聴いた。
バセット・クラリネットの演奏は、ドイツの女性奏者ザビーネ・マイヤー。これまで何度も聞いているはずなのに、2楽章がこんなに心打つものと初めて気がついた。
Sabine Meyer Klarinette Mozart
つられて、これまでに出会った美しいメロディーラインはどんなものであったか、あれこれと独断を思い巡らせてみた。
モーツァルトは、概してよい。とくに、レクイエムの第4曲「トゥーバ・ミルム」のトロンボーンのソロが昔から好きだ。
ついでながら第8曲「ラクリモーサ」も。
Requiem K.626 - 8. Lacrimosa (chorus) - W. A. Mozart
モーツァルトのよさは、あの素っ気なさにある。
アンリ・ゲオンが弦楽五重奏曲ト短調K516の冒頭部アレグロを引き合いに出して、モーツァルトの音楽を「トリステッセ・アランテ(疾走する哀しみ)」と評したことは、小林秀雄が紹介して有名になった。クラブサンの脇の妻コンスタンツェにバカ話をして喜ばせながらトリステッセ・アランテを紡ぎだしていた、という逸話を聞いたときには、なぜか「なるほどなあ」と思ったものだ。
ブラームスやチャイコフスキーなどは、真面目すぎてこうはいかない。
次に思い当たったのはカントルーブの「オーヴェルニュの歌」。
フランスのオーベルニュ地方に生まれ、オーベルニュ民謡協会を創設した音楽家ジョゼフ・カントルーブが、同地方の民謡を採譜して編曲した歌曲集である。
なかでも「バイレロ」がよい。
オック語の歌詞はまったく解せないが、あの旋律を聞いていると、心がごしごしと洗われる。すみきった大きな空に向かい、静かにしかし朗々と語りかけるような歌だ。
クロマニヨン人も、絶対にこんな歌を歌っていたはずだ、と思わせる響きがある。
Joseph Canteloube - Chant d'Auvergne : Bailero
モーリス・ラヴェル、「亡き王女のためのパヴァーヌ」もよい。ラヴェルはパリ音楽院在学中の24歳でこの曲をピアノ曲として作曲し、その11年後に管弦楽曲に編曲した。
パヴァーヌは16世紀ヨーロッパの宮廷に普及した行列舞踏だと、ものの本には書いてある。しかしそういった形式を無視していえば、個人的には、古代ギリシャの巫女が神殿前の広場で厳かに、摺足で舞っているような姿を、この曲は連想させる。"厳かに""ゆっくりと"がミソである。
ラヴェルの曲は同じ世紀末の画家クリムトの絵と同様、きらきら光る過度な装飾性に気を取られがちだが、そんなことを偉そうに指摘すると
「確信犯です。どうかしましたか?」
と言われそうだ。
この曲は、装飾に目を潤ませて鑑賞することもできるが、確信犯の美意識をたどるためには、背を伸ばし顎を引き毅然として聴くべきだ。とはいえ、あの出だしのホルンの音を聞いただけで、ヘナヘナとなってしまう。
Maurice Ravel - Pavane for Dead Princess
童謡では、山田耕作作曲、三木露風作詞「赤とんぼ」。大正10年に作詞、昭和2年に作曲された。
兵庫県龍野市生まれ、函館のトラピスト修道院で詞をつくった露風はそのとき32歳。山田耕作が茅ヶ崎から東京に通う汽車の中で作曲したのは40歳のときである。
"ゆうやァァけ"の"やァァ"という付点4分音符の長さがよい。その向こうに、幼なかった遠い時代がはるかに透けて見える。
それから、NHK東日本大震災プロジェクトのテーマ曲「花は咲く」。岩井俊二作詞、菅野よう子作曲。
"真っ白な雪道に"という中村雅俊からはじまって"いつか恋する君のために"という西田敏行まで、36人がそれぞれ1輪ずつガーベラを持って歌い継ぐ。曲もよいが、歌詞と映像がさらによい。
"わたしは何を残しただろう"と、突然野村克也氏が登場するところでは、ビクッとしてしまう。
この曲の白眉は、「だれかの声が聞こえる、だれかを励ましてる」という部分ですね。この部分は、丘の上で鐘が鳴っているようにしか聞こえない。震災の犠牲者に手向ける気持ちが、素直に胸を打つ。
花は咲くプロジェクト/「花は咲く」ミュージックビデオダイジェスト
モダン・フォークに転じると、「ドナドナ」がよい。
原曲は、1938年にベラルーシ生まれのユダヤ人ショロム・セクンダが、ウクライナ生まれのユダヤ人アーロン・ゼイトリンが作詞したイディッシュ語の歌詞に作曲したもので、その後各国語に訳され、歌い継がれた歴史のある歌である。
もともとは、ユダヤ人に対する民族虐待を歌ったもののようだが、アメリカの公民権運動のさなか60年代にジョーン・バエズが大ヒットさせた。
世の不条理への怒りを静かに切々たるメロディーに託した歌声は、血気にはやり、獰猛な群れなす飛蝗に変態しかねない青年たちの心情を、どんなに地に足のついたものにしただろうか。
そういえば、賛美歌第二編164番「勝利をわれらに」も忘れてはならない。
40年代からアメリカの労働者に歌い継がれ、63年8月28日のワシントン大行進でテーマ曲のように歌われた。34歳のアトランタの牧師キングが20万人の参加者の前で、あの有名な「わたしには夢がある」という演説を行った日である。
当時のデモを記録した映像の中に、護送車で連行される中年女性が、後部ドアにしがみつきながらこの歌を歌っている姿を見て、つくづく音楽には力があると思った。拳を振って元気を鼓舞するような曲ではない。"厳かに""ゆっくりと"歌う曲だからこそ力がある。
テレビ番組のテーマ曲にも、いつまでも口づさみたいものがたくさんある。
たとえば、95年NHKドキュメンタリー「映像の世紀」のテーマ曲、加古隆作曲「パリは燃えているか」。美しく清々しいというわけではないが、なぜか胸を打つ旋律で、20年近く経った今も鮮烈に記憶に残る。
無差別爆撃にさらされる都市、ナチスの旗が掲げられ、出陣学徒が雨の中を行進し、特攻機が突っ込み、バズーカ砲を抱えた兵士が走る映像の背後にあって、この物悲しくも屹然と立つ旋律には、言葉を超えるものがある。
最近のものでは「坂の上の雲」のメイン・テーマ「Stand Alone」。久石譲作曲、小山薫堂作詞。
小山氏には申し訳ないが、どちらかと言えばサラ・ブライトマンの歌う歌詞のないヴォカリーゼ・バージョンが好きだ。
Sarah Brightman - Stand Alone (Vocalise)
05年NHKスペシャル「新シルクロード」のオープニング・テーマ「モヒーニー」もよかった。
ヨーヨー・マ&ザ・シルクロード・アンサンブルの演奏。
アンサンブルのメンバーが、中央アジアで採取してきた旋律だという。砂礫と、タマリスクと、何十代、何百代にわたる人々の暮らしと、何千年もの交易に磨かれた節回しには、煩悩の彼岸の風景がある。
20世紀半ばからはじまった現代音楽は、無調を基本とし、メロディーを歌うことを忌避して、わたしたち素人には極めて難解なものとなった。鼻歌で歌うこともできない音楽には、親しみようがない。
現代音楽の旗手たちには、いろいろと高邁な理想があったのだろうが、少しその気持に擦り寄って考えてみると、メロディーラインについてだけいえば、おそらく「潔くない」という思いがあったのではないか。
たしかに、単に感傷に訴えて情に揉み手するようなものは、危険だ。いまだに、そういう曲が大衆音楽として幅をきかせている。
しかし、美しいメロディーは、必ずしも甘いだけのものではない。むしろ、本当に美しいメロディーは、甘美な装飾や恣意の向こう側に、何か超越したもの、普遍的な倫理のようなものが見えるものだ。そして、もっと重要なことは、静かで穏やかな旋律が、人の心を勇気づける力をもっているということである。
わたしは大学で都市工学を学び、以来都市計画という仕事をやってきた。現実の社会の動きは、甘い感傷を受容するようなものではない。かといって、理に走ってばかりではトゲトゲしくて困る。
やはり、美しいものを信じる気持ちがないと、たとえば"よい街とは何ですか?"という問にも答えられない。
音楽に限らず、危険なものと本物との選別作業を、みんなそれぞれ苦労しながらやってきたわけだが、わたしもこのほぼ半世紀、人並みにそういう戦いを続けてきた気がする。