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薪よもやま話

炭薪奉行

永禄8年(1565年)前後のことらしいが、木下藤吉郎秀吉が清州城の炭薪奉行に就任した。

後世の創作だという説もあるものの、江戸初期の儒学者小瀬甫庵の太閤記に書かれているということで、吉川英治や司馬遼太郎もその逸話を紹介していて有名なエピソードのようである。福沢諭吉の福翁百話にも出てくる。
そのときの業績が秀吉の優れた経営感覚・現場主義の成果としてビジネス書などにも取り上げられることが多い。

このときの藤吉郎の所業から学ぶべき処世術にも深いものがあるが、とりあえずここでは、当時「薪」というものは専任の奉行がつくほど重要な資源であったということに着目したい。

薪の生産量の変遷

昔のエネルギー源は、薪の直接燃焼以外にどんなものがあったのか、不勉強ながらあまり想像ができない。植物油の類は灯りにはなったろうが、煮炊きには使えなかったろう。水車とか牛馬とか帆船の風とか、そんなところだろうか。いずれも、少なくとも家庭用エネルギーの主役とはいかない。

18世紀の第2次エネルギー革命によって主役に躍り出た石炭は、日本では室町時代から使われてはいたらしいが、本格的に導入されるのは19世紀後半からである。やがてそれが石油にとって替わるのが1970年代で、そこでほぼ薪の命運がつきる。

消費者物価指数の対象品目からみると

総務省統計局の「消費者物価指数の改定に伴う主な改廃品目一覧」を眺めると(新たに追加が○、廃止が×)、1960年○自動炊飯器、×マッチ、1965年○プロパンガス、1970年○石油ストーブ、×薪・・・・となっていて、その後木炭、練炭、石炭が次々と廃止され、替わりにガス湯沸かし器、電子レンジ、電気カーペットなどが追加されている。

消費者物価指数で採用している品目は、「世帯の消費支出上一定の割合を占める重要なものから構成」されていて、細分類を含めるとおよそ750項目にわたっている。1970年には、薪はもう750項目にはいらない「重要」でない品目となったわけである。

実際の生産量からみると

それでは、実際に薪の生産量はどう推移してきたのか調べてみようと思って、いくつかの資料にあたってみた。薪の単位表記にはいろいろあって、資料によりまちまちなのですぐに俯瞰するのがむつかしい。ちょうど国立研究開発法人森林総合研究所の明間民央氏が薪の単位についてまとめたものを公開してくれていたので、それにもとづき、さらに私見を加えて以下に掲げておく。

薪の単位

立米

丸太に換算した体積
1立米の重量は一定の含水率のもとで720kg

層積立米

小さな塊が積み重なったいわゆるバルク状態のままで測った体積
立米に換算するには空隙分を割り引く
0.625立米、450kg
この換算係数は、地域によって異なる。たとえば、「森の舟・樹空師養成講座資料」では、旧秋田営林局で0.625、旧青森営林局では針葉樹0.508、広葉樹0.442、旧山形町では0.648だったという。

10立方尺=0.27826立米

層積石

層積立米に準じる
0.625石、0.174立米、125kg

10kg


各資料による薪の生産量を層積石に換算して推移をみると、実にドラスチックな姿が現れた。
1931~35年の年間平均生産量は5,000万層積石、それが55年には3,900万層積石(経済企画庁昭和32年年次経済報告)となり以降急激に減少。56年には3,400万(同)、73年にはなんと180万、80年にはとうとう54万(以上、林野庁特用林産基礎資料)、その後06年に12万まで落ち込んでから徐々に持ち直し、10年以降は年間30万層積石前後(同)で推移している。

薪の生産量の推移

30年代と比較して、現在はその1/170の水準である。しかも、そのうち55年から80年のわずか25年間だけで実に1/70という急減をみたのである。60年でも2,080万層積石だったというデータ(NPO法人日本里山の森林(もり)を育む会による)もあるので、60年からの20年間でみれば1/40ということになる。

やはり、70年あたりが大変動であったのである。その引き金にはいろいろと複合的な事情があったはずだが、64年の東京オリンピック以降の生活スタイルの大きな変化(たとえば学校プールができたとか、乗用車が増えたとか)と連動しているにはちがいない。

ちなみに、2014年の全国の薪の生産量は30.6万層積石で、もっとも多かったのは鹿児島県(全体の19%)、次が北海道(14.5%)であった。日本列島本土の南北端であることが、ちょっとおもしろい。47都道府県のうち14府県では、もうすでに数字が計上されなくなっている。

ほとんど一般家庭で消費され、1980年に消費者物価指数から姿を消した木炭も、同様の推移をたどった。ピークは1940年の270万トン、戦後では57年の222万トン、95年にはそのわずか1.4%となっている。

ここ10年は増加傾向にある

2006年以降の持ち直し傾向が、どういう要因によるのかはっきりしないが、家庭用の薪ストーブの普及などということが少しは影響しているのだろうか。

地元の薪ストーブ愛好会の方のお話をうかがうと、広島の気候で年間に約1トンの薪を使うそうである。30万層積石は3.8万トンにあたるから、約4万台の薪ストーブがフル稼働するだけの生産量を維持していることになる。ただし、彼らは市販の薪を購入するだけではないので、その多くはこの統計には現れていない。
林野庁の「特用林産物の動向」によると、近年の薪販売量の増加は、「従来のかつお節製造用に加え、ピザ窯やパン窯用等としての利用や、薪ストーブの販売台数の増加など」を背景としているとのことだ。

薪の効用

精神的効用

焚火は体が温まるだけではなく、静かに自省を促しつつ生きる勇気を与えてくれる、と一般に言われ、多くの人が等しく礼賛するものであるが、とくに良質の薪による焚火は格別のものである。

その炎の美しさ、見ていて決して飽きることのない変幻自在でしかも抑制の効いた踊り、燃えて熾きになり均質の灰になって土に戻る、すがすがしく潔い姿。これに触れることが、精神的によい効果をもたらさないわけがない。
なかでも、よく乾いたカシやコナラやクヌギなどの広葉樹で直径7~8センチくらいに割ったものをくべるときには、燃える前から脳内にハッピーホルモンがどばっと分泌されるのが実感される。つまり、薪は人を幸せにするのである。

読売新聞によると、「大阪ガスエネルギー技術研究所は2004年、火の心理的な効用を検証するため、暖炉のある部屋とない部屋で被験者30人に会話してもらい、親密度に変化が出るかを比べた。すると被験者からは『暖炉がある部屋の方が話し相手との親近感が高まった』との回答が多かった。同研究所は『波や泳ぐ魚などと同様、火には人間にとって快適とされる“ゆらぎ”が含まれ、集中力回復など癒やし効果があると考えられる』としている」という。
このことは、薪ストーブのグランビル社のブログや、田辺晋太郎さんの著書「牛肉論」でも紹介されていて、有名な話らしい。

焚火の心理的効果は科学的にも立証されているわけである。

環境的効用

そういう個人的体験だけではなく、薪を消費することは森林にとっても地球環境にとってもよい。

里山の荒廃はつとに言われているが、その原因は山の手入れをしなくなったことにある。山林の樹木の価値が下がって間伐や除伐、下草刈りなど育林作業のコストがでない、残材を薪や炭などにして燃やすことがなくなった、といったことが背景にあって、マツタケシーズンくらいしか人が山に入らないという世の中になってしまったことが山を荒れさせているのである。要するにお爺さんがシバ刈りに行かなくなったせいで、温帯モンスーンの日本の山はジャングルになってしまった。
このことが、森林自体の成長をとめ、山の保水力の低下や、放置された間伐残材の大雨による流出の危険性などを引き起こしている。
薪を使うことで残材の資源化ができ、萌芽更新の機会が生まれれば、わずかではあれその分だけ森林の荒廃を防ぐことができる。

また、木は空気中のCO2を吸収して育つので、それを燃やすことでCO2が発生しても、それが地球全体の温室効果ガスを増やすことにはならない。薪を熱源に使うことは地球環境のためにもよいことなのである。

ちなみに、資源エネルギー庁の資料によると林地残材だけで国内に年間800万トンが発生し、そのうちわずか1%が製紙原料などとして利用されているのみだという。

薪の周辺

薪能

薪に関連した文化というと、薪能がまず浮かぶ。

薪能は、もともと奈良興福寺の修二会(しゅにえ)期間中に演じられた「薪御能」(今は5月に開かれる)が本家であるという。
世界宗教用語大辞典によれば、薪猿楽ともいい、本来は「諸神を勧請するために焚く薪を採るための『薪の神事』」なので、薪の照明で演じる能というのは俗解だと断じている。

とはいえ、本家であろうとなかろうと、俗解であろうとなかろうと、わたしたちは夜間に松明を焚いて野外で演じられる能のことを一般に薪能だと思っているし、それが今は世間の通念であろう。

夜、薪で明かりをとって外で能を舞おうと誰が思いついたのか知らないが、これが絶妙な組み合わせであることは論を待たない。日本はつくづく陰影と野外の文化である、と思ってしまう。
鋳鉄の籠にはいったコエマツの火を三叉の籠受脚で高々と掲げる篝火は、それだけで幽玄そのものであり、ネオンやLEDの照明ではとてもそうはいかない。

薪の地名

薪河岸

薪河岸という地名がある。薪屋が集中していて薪の積み下ろしや集積を行った場所というのが由来であろう。
いずれも消滅しているが、東京の麻布、京橋、湯島天神近くの神田川などの記事が散見されるし、幕末にヒュースケンが攘夷派に襲われたのも芝薪河岸の中の橋であった。横浜の富岡八幡宮の近くにも薪河岸と呼ばれたところがあって、歴史探訪コースにはいっている。
薪はかつて重要なライフラインだったわけだから、江戸周辺だけではなく、都市部には必ずその集積場があって、そのうち薪河岸と呼ばれた場所も多かったのではないだろうか。

京田辺市薪

「薪(たきぎ)」という地名が京田辺市にある。
探してもほかにないので、ひょっとしたら全国でここだけかもしれない。郵便番号は〒610-0341。
児童数615名の「薪小学校」があり、学校便りは当然「たきぎ」。1629年の板文が奉納された由緒ある薪神社もある。

鎌倉時代の岩清水八幡社の荘園であった「薪荘」もしくは「薪御園」が発祥らしく、地図を見ると地区内には薪を冠した地名が山のようにある。薪赤坂、薪狐谷、薪城ケ前、薪斧窪、薪百々坂、薪甘南備山、薪城ノ内、薪小山、薪狭道、薪井出、薪溜池、薪西浜、薪名松、薪薊、・・・・・まだまだあって、とても書ききれない。

M.Ogawaさんが設けている「発祥の地コレクション」という面白いサイトがあって、ここには1635件もの発祥の地のデータが掲載されているが、その中に「能楽発祥の碑」というのがあって、薪神社が紹介されている。
それによると、室町時代に金春禅竹が一休禅師に猿楽の能を演じ観覧に供したことをもって能楽の始まりとされたらしく、境内に立てられている石碑の碑文には、次のように刻まれているという。

能楽発祥の碑
    能楽は薪能即ち金春能に初まり 
    次に宝生能 観世能は大住に 
    金剛能は大和に発祥した
       昭和六十一年十一月文化日
       文学博士 志賀 剛

代燃車

代燃車は正式名称「石油代用燃料使用装置設置自動車」で、木炭や薪などを加熱して発生させたガスでエンジンを動かす自動車である。
ガソリン統制下、1920年代から40年代にかけて、バスやトラックなど大型車にガス発生装置を搭載して走らせた。昔は、薪で自動車を走らせた時代も、永くはないがあったのである。

2012年に代燃車の性能試験を行った交通安全環境研究所の山口恭平さんの報告では、まず最初にガスを発生させておく必要があるのでエンジン始動前に数時間を要することもあること、出力は23馬力ほどで現在の中型バスの1/8程度であったこと、などが紹介されている。
燃料は、薪1kgで1km走行というレベルで、航続距離が短いことも淘汰された理由ではないかと山口さんは言っている。

この試験に協力し、かつて「薪バス」を運行していた神奈川中央交通は、81年に創立60周年を記念して8ヶ月かけてこのバス「三太号」を復元したのだそうだ。
同交通によると、薪はナラ、クヌギ、クリ、サクラ、モミ、シラカバなどを使い、6×4センチくらいの大きさに加工した角材を使用するという。

薪バスは、北海道中央バスの「まき太郎」(1993年創立50周年で製作、自家用ナンバーを取得していまも展示・試乗で活躍、ミニカーのチョロQにもこのモデルがあるとか)、大町市の「もくちゃん」(1982年に大町エネルギー博物館に寄贈されたトラックを、90年にバスに改造したもの、同博物館に動態展示、「北アルプス・バイオマスを考える会」がイベントで運行)などがある。
このほかにも、薪ガス自動車(鳥取県智頭町の薬局経営國岡啓二さんが製作し、2011年大阪モーターショーに出品、薪70kgで50~80km走行可能)などが話題を呼んだ。
代替燃料車による自動車レースはいろいろあるが、2008年のバークレーからラスベガスまで1000キロを走破するレースでは、薪トラックが2位に入賞している。

薪自動車は単なるノスタルジーではなく、夢がある。
薪は精神的にも環境的にも効用があるのだし、なにはともあれ移動するのに石油のお世話にならずとも(電気だって、もとは石油や原子力なのだ)、そこらあたりの廃材や山の木が使えるというのが楽しい。

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