category name  »  page title date

火は生き物である

春を待つこの季節は、火を焚くのによい。厳寒の頃は、火の暖かさがありがたいが、いやしくなる分だけ忙しない。夏は夏で、夜の焚き火は気分が高揚しすぎて、心が躍ってしまう。
その点、いまの時候は静かに火に向き合うことができる。

乾いた焚きつけの木片を並べ、マッチ棒ほどのコエ松に火をつけて中心に置く。
焚きつけに十分火がまわったところで、少しずつ薪を補充して、安定した火にする。その上に、集めておいた落ち葉や立ち枯れの草をかぶせて、勢いを調節しながら、暖をとるでもなく、湯をわかすでもなく、そばに腰掛けてひとときを過ごす。

そうしていると、気持ちが静かになって、日頃考えないことにいろいろと思いがいたる。以下、火を見ながら考えたことである。

前から不思議なのだが、ここに燃えている炎は、まるで炎という実体があってそれが揺れ動いているように見える。ところが、実はいま目の前にあるのは、一瞬前に燃えていた分子ではない。
時々刻々新しい分子が補給され、新しい酸素と結合して、プレイヤーが激しく入れ替わっている。さっきの炎を構成していた分子は、反応を終えて別のものになり、すでに上空に去っているはずだ。それなのに、炎自体はここにとどまって揺れている。

最近話題になった「生物と無生物のあいだ(講談社現代新書、福岡伸一著)」では、生物の定義に「動的平衡にある流れ」を追加している。それにしたがうと、燃焼する分子が、その動的平衡の姿として形づくる炎も、生き物ということになる。
平衡状態というのは、概して動的なものなので、同語反復のような気もするが、それはともかくとして、たとえば人の体が絶え間ない新陳代謝によって命を保ち、それがあたかもずっと連続して存在する個体のように認識されるのと、揺れ動く炎が実体のように見えることには、さしたる違いがない。

生物の古典的定義に「自分をコピーする能力をもつ」というのがある。そういえば、他の燃え草に炎を近づけると子供ができるというのは、「自己複製」機能にほかならないのではないか? いよいよ炎は生きているのである。

とりとめのない話は置く。
しかし、炎が作り出す秩序は美しい。それに対する揺るぎない自信を、炎はもっている。これが、火を見ていて飽きない理由だ。

地上で自然と共生し、お互いに集住するわたしたちの営みも、また動的平衡の姿である。その構成員は次々と入れ替わり、いまある建造物も永遠ではないにもかかわらず、街や田園は比較的安定した実体として継続する。

そのシステムは、炎のように美を再生産していく力をもっていた。
いまの日本の動的平衡は、そういう力をもっているか、と静かに問いかけてみるのに、絶好の季節でもある。

inserted by FC2 system