火の扱いに慣れているかどうかは、火のつけかたよりも消しかたを見るとよくわかる。
勢いよく燃えている薪に水をかけて消すのは、慣れていない人か消防士さんか、どちらかである。
水をかけると火は消えるが、蒸気の爆発で灰が飛び散るうえに、濡れた薪はまた乾くまで再利用できない。その焚き場で次に火を焚こうと思っても、底がどろどろになっていては始末が悪い。
要するに、汚い消しかたなのである。
きれいに消すには、ただ単に、そっと薪をはずせばよい。お互いに離ればなれになった薪は、単独では燃えることができず、すぐに炎の舌を隠し、赤熱の色もだんだん薄れ、やがて静かに消える。
このごく当然のことをはじめて教わったとき、恥ずかしながら嬉しくて膝を打ったのだが、同時に、その教訓の奥深さにしみじみ感じ入った。たとえていえば、古老の磨かれた言葉を聞いたような思いである。
薪は一本では燃えることができない!
だから、燃やすためには、丸太を割って何本かに分けたり、それらを組み上げたりしなくてはならないのだ。
組み合わされた薪は、お互いに触れあうところで炎をあげる。火を持続させるには、炎の下に空間をつくり、そこに共同でエネルギーを蓄えなくてはならない。孤立した薪では、それができない。
薪同士の距離も問題である。べたっとくっつきすぎると空気の流れがじゃまされて、火が弱くなる。適度なスリットがあくと、それだけで火の勢いがよみがえる。きちんと燃えるためには、適度な距離感が必要だというわけである。
丸太を一本立ててそれだけでふつふつと燃すやりかたを競い、「木こりのロウソク」などと言ってよく遊んでいるのだが、これは、上端の木口にチェーンソウで十文字の切り込みをいれ、真ん中に蝋で固めた木くずなどを置いて火をつけるものである。
中が燃えていくと、周囲に外輪山が残るので、それを利用してヤカンや鍋を置くことができる。「木こりの七輪」と言ってもよい。
これなども、実は一本で燃えているのではなく、よく考えると切り込みによって擬似的に何本かの薪の群れをつくっているのである。
恥ずかしながら、ひとりでも燃焼できると、ずっと思っていた。そう思わないのは、甘えのせいだと、自分に言い聞かせていた。
しかし、逆だったかな、と火を見ていて考える。人は誰かとともにしか燃えることができない、というのが自然の理りなのである。それも、適度な距離を置いて。