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くぐし

いなか暮らしをはじめた頃、草の始末にほとほと困った。
ほとんどの草は、一シーズン放っておくと背丈を超えてしまう。お花見の後から秋祭りがすむまで、ほぼ1ヶ月に1回は刈らないと、刈りづらくなる。1日で、刈るべき場所の1/4を刈ることができるとすると、毎週日曜日は草刈りでつぶれてしまうことになる。

なんとか効率のよい方法はないものかと、四駆の車で圧しつぶしたり、キャタピラつきの重機で走り回ったり、あげくにはバーナーで焼いたりと、いろいろ乱暴なことをやってみたが、その後は決まって、よけいに元気な草が生えてくる。
ひと通り試してみた後は、あきらめて、おとなしくまわりの人にあわせ刈払い機で刈ることにしている。

自慢話をするわけではないが、最近は鎌を使って手で刈ることに、ちょっと覚醒めた。
草の質や地形など、条件によっては鎌が一番効率がよいこともある。刈った後の美しいのは、鎌、ノコ刃の刈払い機、紐の刈払い機、の順である。

それはともかく、どんな刈り方をするにしても、その後の草の処理が大変だ。堆肥にするという我慢強さもないので、燃やすということになる。最初は、刈った草を一日乾かして燃やしていたのだが、これがよく燃えて、燃えカスが舞い上がり、けたたましいのに参った。

わが家の隣に、90歳になろうという杉田さんというおじいさんが一人住まいしておられた。
家の中は斜めのものが一切ないくらい、きちんと整頓され、チリひとつ落ちていない。
翁が、石垣の上の干し場に洗濯物を運んで、一枚ずつパンパンはたいてしわを展ばしているのを見上げると、凛として、お侍さんの姿である。家のまわりは当然、草茫々のわけがない。

あの杉田翁はどうやって草を燃すのか、と観察してみた。
朝露の消えぬころに鎌をもって登場。数本の薪に火をつける。腰を落として、かたわらの草を、右手左手と鎌を持ち替えながら刈ると、束ねて火の上にかぶせる。
この作業を黙々と続けて、やがてほとんど背丈ほどの生草の山ができる。山のてっぺんから、ミルクのような白い煙が一筋、す~っと立ち上る頃、まるで芝庭のように美しく散髪された草原を後に、翁は姿を消してしまう。
残された草の山は、ミルクを吐きながら一日かけて燃え、跡には黒い灰だけが丸く残る。

これは、ショックであった。
なんと理にかなった作法であろうか! 露に濡れた草は、内からの熱で水蒸気を出すから、外側の草はびしょびしょになり、したがって、草の山全体が燃え上がるようなことにはならない。中の火はカンカンに燃えているのに、それが外から見えることはない。人も、こうでありたい。

それはクグシという燃やし方だ、と後で別の人に教わった。この物静かな自然との接し方にあこがれて、以来、クグシの練習に明け暮れている。やってみると、これは年季のいる仕事だということがよくわかる。
ヘタにクグすと、燃えきる前に横に穴があき、そこから余計な空気がはいって一時炎上し、そして消えてしまうのである。

家に帰ると、妻が昼間に刈った草の小さな山を用意しておいてくれるのが日課になった。車を置いて家に入る前に、これをクグシて煙を充満させてから玄関をあけると、「ああ、いい匂い」と喜んでくれた。わたしにとってクグシは、妻と過ごした幸せな日々の証でもある。

焚火は、必要十分な火を焚くというところに、その美しさがある。過剰をきらうという意味で、焚火は教養そのものである。そのなかでも、クグシはその原点のような火の焚き方であるといえる。


クグシについては、図解と写真が日本焚火学会のページに掲載されている。

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