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御手火神事

沼名前神社総代にお会いする

2017年7月8日、鞆町の沼名前(ぬなくま)神社の御手火(おてび)神事を見に行く。一説では鎌倉時代から継承されているという福山市の無形民俗文化財である。

「日本三大火祭りのひとつ」という宣伝文句を目にして、本当かいなと調べてみると、諸説あるなかで一般には長野県野沢温泉村の道祖神祭り、京都の鞍馬の火祭、熊野那智大社の那智の火祭りなどを言うのだそうだ。残念ながら諸説のなかに御手火神事を挙げたものは見あたらなかった。
だからどうということはないのであって、三大でなくともよろしい。火祭りなるものが広島県内で千年近くも受け継がれていることを愛でるために、ぜひとも行ってみなければならない。

夜8時に始まるとのこと。
夕方6時に着いて、やっと開いている食堂を見つけるとその名も“おてび”というのであった。ざるそばを食べて7時過ぎに神社に向かう。

さぞかしごった返しているかと思えば、町中はけっこう静まり返っていて、道を歩く人もほとんどない中に、右手になにかぶら下げて悠然と前を歩く2人連れの初老の男性。見ると、これはあきらかに火をつける前の松明(たいまつ)である。

追いついて知ったかぶりに声をかけてみた。
「それは、コエマツを束ねたものですね」

うちのお一人が、親切に解説をしてくれたのによると、たしかにこれはコエマツである、最近は入手しにくいので、質が悪い、この松明は“こてび”と言って、御手火のメインの松明である“おおてび”から火をもらって、家に持ち帰るためのものである、まだちょっと時間があるがわたしは責任があるので早めに行く途中である、云々。

「責任あるお立場と言いますと?」
と聞けば、なんと神社の総代さんということであった。嘘のような本当の話である。

祭りの最中にも何度かお会いして、いろいろと解説の続きをいただいたのであるが、印象的だったのは次のような寂しげなお言葉であった。
「昔は、石段を登る大手火の周囲は、おびただしい小手火の群れで真っ赤になっていた。カメラマンなどいなかった」
境内に着くと、町中とは対照的に人で溢れはじめていたが、たしかにスマホから高級一眼レフまで、ほぼ例外なくカメラを手にしていた。

大手火と小手火

山門の前の広場左手の四阿の中に、3本の大きな松明が立てかけてある。これが大手火に違いない。
それぞれに「道越町」「江ノ浦町」「鍛冶町・祇園町」と墨書された札が貼ってある。
見るところ、コエマツを芯にしてまわりに雑木をかぶせ、さらにその周囲を割竹で囲んで荒縄で縛り上げている。荒縄には随所に持ち手がついていて、大勢で担げるようになっている。長さは約4m。
かつては重さが180kgであったが、いまは総代さんのおっしゃるようにコエマツの質が落ちたので火持ちをよくするためにその分嵩が増えて、200kgを超えるとのこと。

ちなみに、これは拝殿脇においてあった小手火である。
みんな同じようなしつらえなので、どこかに既製品があるのかと聞いてみると、なんとあのざるそばを食べた“おてび”に置いてあって、だいたいそこで買うのだそうだ。
しまった!

太鼓の響き

夜の8時になると、拝殿から太鼓の音が響きはじめる。
数台の和太鼓が8分の12拍子1小節分を延々と繰り返していく迫力は、なかなかのものだ。何の小細工もせずまったく変わらぬリズムが、打ち手を交替しながらとうとう祭りの終わるまで、暗闇の中4時間近く打ち続けられた。

この確信に満ちた音の波は、知らず知らず身中の勇猛心を呼び起こして、雄叫びを発しそうになってしまう。御手火神事は最初から最後まで、この太古の響き(洒落ではない)に包まれて進んだ。

さて、このリズムが響きはじめるのにあわせて、下から駆け上がってきた白装束のかき手100人余りが拝殿にあがって太鼓の間に座り込むと、ただならぬ雰囲気。どうやら拝殿の奥に神官と白装束の一人とがもぐって、小型の松明(神前手火というのだそうだ)に火をつけるのをみなで待っているのである。
そのうち、一斉に「お~~~い、お~~~い」という呼び声が湧き上がる。だんだん盛り上がる声が頂点に達したところで、奥から神前手火をかざした白装束が躍り出る。それを待っていた残りの白装束がどかどかと立ち上がり、みんなでもつれるようにしながら山門の下まで石段を駆け下りていって、これからいざ火祭りの始まりである。
誰がこんなドラマチックな演出を考え出したのか。歴史の蓄積の力というものは恐ろしいものである。

ほーらーちょいと

下で待っていた大手火が、この神前手火によって次々に点火される。
3体の大手火は、山門下の群集の中をのたうち回ったあと、先の体、中の体、後の体の順番で山門をくぐり、石段にさしかかる。

かき手たちは次々に交代しながら、幅およそ6間の石段を右に左に大手火を揺らしつつ、少しずつ少しずつ段を踏み上がってくる。その周囲はカメラをかざした観衆で埋め尽くされている。
少しずつ少しずつなので、山門を抜けて63段の石段を上り切るのに2時間以上を要した。

その間、なにやら全員で掛け声を吠え立てているのであるが、なにせいろいろな歓声が入り混じっているのでよく聞き取れない。
わたしには
「おお夏来い!」
と言っているように聞こえたのだが、あとで聞くと
「ほーらーちょいと」
と言っていたのだそうだ。意味はよくわからない。

水祭り

この間、200㎏の松明はかなり酒の入った白装束が10人がかりで担いでいるのだが、重いうえに火の粉が振りまかれるので、相当の難行である。
先っちょのメラメラ燃えている部分を決死の体で背中で支えている人などは、修道僧のような頭巾で防護して、周りからはバケツの水がバサバサひっきりなしにかけられているのだが、その顔は苦痛にゆがんでいる。

「火傷するのでは?」
と聞くと、「いやあ、全員火傷だらけです」ということであった。

このために、水のバケツをさげたスタッフが何人も、群集をかき分けかき分けしながら走り回っている。バケツの水は、最終的に大手火を立てかける支柱にも念入りにかけられるので、支柱の用意された拝殿の前は水しぶきに満たされっぱなしであった。
火祭りにあわせてで繰り広げられる水祭りである。

どこかのテレビ局の取材クルーがかざしていたマイクの大きな風除けスポンジなどは、熱で毛羽立ってしまったうえに水をかぶって、見るからに廃品と化していた。このスポンジもディープな参加者の一員だったといえる。

勢ぞろい

夜中の12時前に、やっと3体の大手火が拝殿前の支柱に勢ぞろいし、3台の神輿が大手火の背後を駆け抜けて拝殿内に鎮座し、今日の神事は一応終了。
この後、白装束の人たちは燃え残りの大手火を携えてそれぞれの町内にもどり、明日以降の祭りの準備をするのだそうだ。

壮大なあほらしさ

冷静になって考えてみると、この神事に費やされたエネルギーは膨大なものである。
あれだけの松明や支柱やバケツや衣装などの装備を準備するのには、多くの人の手と日数を要したであろうし、100名のかき手だけでなく、大勢の太鼓のたたき手や、控えていた数十人の消防団など、関わった人たちはそれぞれ事前の訓練が必要であっただろう。
あとの掃除だけでも大変な手間である。

それに当然、火災というリスクもある。これまでに間違って火事になったりしたことはないのか、残念ながら聞き漏らした。しかし大手火が山門をじりじりくぐる時には、いまにも山門が燃え上がりそうな危険を感じたのである。
こんな馬鹿げた神事などなければ安心なのに、このおかげで鞆の街が燃えてしまったらどうするのか、という声が出てもおかしくはない。少なくとも沼名前神社のような密集市街地に隣接した神社で好んでやるイベントではないだろう。

そういうエネルギーやリスクという負担の代償として、御手火神事にはいったいどんなご利益があるというのか、ということが気になる。
沼名前神社のホームページでは、この神事の由緒が次のように記されている。

「我々の祖先は火を非常に恐れ且つ大切にし、またすべての不浄を清めてくれると信じていた。この観念がいつしか信仰に変り祭典にまで進んだものと思われる。 翌日行われる神輿渡御に先立っての境内・町内の清祓、氏子の病気厄払いとして斎行されている」

素晴らしい! に尽きる。

これだけの負担を吹き飛ばすほどの明快なご利益とは、とても思えないという点が重要だ。
どんなイベントも、表向きの趣旨はせいぜい五穀豊穣・家内安全くらいで十分であって、それ以上の御託を並べるとどんどん嘘っぽくなってくる。この由緒書きには、嘘を言わない潔さがあって気持ちがよい。

「境内・町内の清祓、氏子の病気厄払い」というなんだかよくわからない目的で、これだけ壮大なエネルギーと重大なリスクを、地域の人たちが共同で負うというところが肝心なのである。
お題目はともかくとして、大火を焚いて神前に持ち上げるというだけの極めてシンプルで非日常的な、ばかばかしい事業を成し遂げることによって、共同体としての結束を確認し、達成感を共有する、というところに実をいえば本当の目的がある。

したがって、この時だけはどんどん無駄なエネルギーを消費したほうがよいし、危なっかしければ危ないだけよい。
それが、イベントというものである。
そう考えると、現代社会では、1000年も続くような本当の意味でのイベントを創造することはどうもむつかしそうだ。

沼名前神社のような歴史的・民俗学的に説明のつく行事は、一種の既得権なのである。

昔の人はえらい

昔の人は、この「あほらしさ」の意義をよく知っていたと思う。
そこに火を持ち込んだ慧眼には、感心する。
火はエネルギーでありリスクであるだけでなく、ここで焚く火は明り取りに使うわけでも餅を焼くでもなく、何の実態的効用ももっていないのである。

諏訪大社の御柱祭にしても、岸和田のだんじり祭にしても(別にこれだけ掲げる必要はないのだが)、考えてみればハチャメチャである。式年造営のためなどというのは、どちらかといえばつけたしのような気がする。

三内丸山の縄文遺跡にある有名な柱穴は、それぞれ直径2m、深さ2~2.5m。6つの穴に直径1m、高さ20mの栗の巨木が立っていたという。

何かの本で、その原木が集落から数キロ離れた谷の斜面で伐り出されたものだということがわかった、というような記事を読んだことがある。
4,500年も前に、直径1mの堅い栗を6本石斧で倒し、7トン近くあったのではないかという長さ20mの原木を、丘を越えて運んだ。
ひょっとしたら数ヶ月あるいは数年かかったのではないか、と想像してわくわくしたものだ。しかも、それを立てるとなると、これはもう世代を超えた一大事業である。

その巨木の用途については、物見やぐら、神殿・祈祷所、祭殿・精霊堂、灯台、集会所、首長の館・・・と諸説あってまだ定説はないらしい。
わたしとしては、そこに屋根をかけたり壁をつけたりしてほしくない。これはもう、昔の賢い人たちが単に面白いからやった、あほらしいからやったのであって、その先の世俗的な目的などはなかったと思いたい。

三内丸山の巨木が立ち上がったときには、当然ながら締めくくりに、たくさんの良質のコエマツを積み上げた大きな焚き火が焚かれただろう。

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