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愛しのエンデ

エンデ空港

ガルーダインドネシア航空の双発プロペラ機ATR72-600が、ラブアンバジョのコモド空港を発って50分ほどでエンデの上空に達し、町のシンボルとも言えるイヤ山を眼下に見たと思うと、そのままH.ハサン・アロエボエスマン空港に左右にガタガタと機体を震わせながら着地した。

この空港は、かつて利用した友人に聞いたところでは、離着陸の間を縫って滑走路上を牛が徘徊していたというが、一日に最大16便が発着する現在、そこまでのんびりはしていないらしい。牛の姿は見えなかった。

タラップを降りて空港ビル――といっても平屋の簡素なものであるが――まで歩いていくと、ドアを入ったところに手荷物のターンテーブルがあって、その部屋からはいきなり外に出る。外には、2~30人の出迎えやタクシーの呼び込みの人々が待ち構えていて、それをすり抜ければ、そこはもうエンデの町の中である。

すり抜けたところに、建設会社の現地駐在員のY氏が車で迎えに来てくれていた。

フローレス島

インドネシアは東西5千キロを超えて1万5千の島が連なる島嶼国家で、その島々は「赤道にかかるエメラルドの首飾り」あるいは「オランダ女王の首飾り」と呼ばれている。

ちなみに、島の数は発表のたびに増減があり、かつて17,508だったのが2013年には13,466になり、2017年に14,572となった。

最近噴火動向が気になるバリ島のアグン山の標高などは、所管する省庁によって公表値が異なり、3,014mであったり、3,314mであったり、3,142mであったり、3,031mであったりする。

このあたりのアバウトさがこの国の魅力である。
考えてみれば、世の中のたいていのことは有効数字1桁か2桁で用がすむものだ。

フローレス島を含む東ヌサトゥンガラ州は、その首飾りの一番東に位置する小スンダ列島(ヌサトゥンガラ諸島)の東半分にあたる。つまりこの国の東端に近い州で、すぐ先がオーストラリアである。

昔、バリ島とロンボク島(小スンダ列島の西端の島)の間にあるウォーレス線を渡ったホモ・サピエンスが、ヌサトゥンガラを通ってオーストラリアまで足を伸ばし、アボリジニーの人たちの祖先となった。
ウォーレス線は、氷期にも陸とならなかったために、生物相が東と西でオーストラリア区と東洋区に分断されているところである。人類はここが陸続きになったのを見たことがない。

東ヌサトゥンガラ州の位置(底図はWikipediaから借用)

フローレス島は州の中でもティモール島に次いで2番目に大きい島である。面積からいえば、日本の四国から愛媛県を取り除いて東西をおよそ2倍に引き延ばすとフローレス島になる。細長いため、西端のラブアンバジョから東端のチワトビまで車で行こうとすると18時間を要する。
エンデはそのほぼ中央部に位置するのだが、したがって同じ島の中でもラブアンバジョから来るのに、飛行機に乗らなくてはならない。

2003年にフローレス島のリアンブア洞窟で発見されてホモ・フロレシエンシスと名付けられたいわゆるフローレス原人は、背丈が1メートル程度と小さく、謎の小人族として有名になった。
いまではジャワ原人がフローレス島に渡り島嶼化によって矮小化したという説が有力らしいが、ホモ・サピエンスよりもはるか前にウォーレス線を越えた人たちがいたということで、驚くべきことなのだそうだ。

フローレス島(底図はGoogleMapから借用)

フローレス島は、細長いことだけではなく、人類学・考古学の一大トピックの産地だということでも際立った島である。

エンデの町

エンデ市は、フローレス島を構成する6つの県のうちエンデ県の県庁所在地である。島のほぼ真ん中の南岸に位置する。

市街地は、標高1,639メートルとも1,631メートルとも言われるクリムツ火山(ついでにしつこく言えば、1,609メートル、1,640メートル、1,647メートル、1,690メートルという数字もある。クリムツ国立公園事務所の会議室に掲げられたパネルには、1,731メートルと記されていた)が海に向かって裾を伸ばしたところにあって、陸地がそこだけノドチンコのように突き出した根本のところに展開している。

市街地の南、海側の首根っこに空港があり、さらにその南側、つまり跳びだしたノドチンコの本体の場所にイヤ山がある。標高370メートルほどの小山ながら、きれいなプリンの形をした、いわゆるテーブル・マウンティンである。
町のすぐそばにあって、山裾に目立った建物がなく、緑のプリンになっているうえに、空港に降り立ってすぐ後ろに見えるので、大変印象が強い。

実は、地元の人たちが「あれがイヤ山だ」というから信じていたのだが、実際にはそのさらに先の岬の先端部にある標高655メートルの山塊がイヤ山で、その手前の、こちらがイヤ山だと思っていたのはメジャ山という名称であることが、“火山と地質災害防止センター”などのエンデ地域の自然災害を分析したレポートを読んでいて知った。しかし、地図にもイヤ山と表示してあるし、地元の人もそう思っているので、あえて訂正しないことにする。
1969年に突然爆発して大きな被害をもたらした本家のイヤ山は活火山であるが、メジャ山とその中間にあるロジャ山は有史以来噴火していないため、イヤ山と市街地との間の自然のバリアになっている---と考えられるのだそうだ。


エンデ市の人口は6万人と聞いた。

観光とはほとんど縁のない町である。

かつて独立運動家スカルノ(建国の父で初代大統領)がオランダの植民地政府に流刑にされた旧居が港のそばに残っていて、そこが一応観光案内に載っている。
しかし、5分もすると全部見ることができるほどの小さな博物館で、とても貸し切りバスが乗り付けるようなものではない。

30キロほど西に行けば「ブルー・ストーン・ビーチ」というのがある。
数キロにわたって緑を基調にした玉石が浜を覆いつくしている美しいところだが、カフェが数件あるだけで観光客が押し掛けるような場所にはなっていない。行ってみたけれども、オフシーズンということもあってか、見渡す限り客はひとりもいなかった。

クリムツ火山は山頂付近に3つの切り立ったカルデラ湖があって、それぞれ青・緑・赤と水面の色が異なり、大スケールの絶景である。
ここに日の出を見に訪れてみたところ、早朝にもかかわらず、3湖を同時に見下ろす展望台に続く尾根筋には百人は下らない人々が列をなしていた。
ただし、ここに来るにはエンデから山道を2時間車に乗って、さらに駐車場から30分ほど歩かなくてはならない。ちょっと遠すぎる。それに、何千人も押し掛けるところでもない。

つまり、エンデ自身はほとんど観光資源というものを持っていないので、観光客らしき人を見ることがない。そのためにバリ島の感覚でみると、車の少なさに救われる。渋滞などという言葉さえないだろう。

フローレス島西端の町ラブアンバジョは、対岸のコモド島の玄関口となっている。コモド島には、コモドドラゴンが生息する。
自分のところにはコモドドラゴンはいないくせに、町中その写真や絵や彫刻にあふれていて、空港まで「コモド」空港としてしまった。空港ビルの壁面には巨大なコモドドラゴンの絵が描いてあって、ラブアンバジョを訪れた人はまずそれを見せられる。
植生が貧しく荒涼として砂埃の舞う土地に、トタン屋根の民家や土産物店やレストランがひしめいていて、いたるところで作ったり壊したりの建設事業が進んでいる。

コモド空港

それに比べると、同じ島でありながらエンデはなんと静謐な町であることか。

人口が少ないせいか、観光客を楽しませようという浮ついた気持ちがないせいか、静かで清潔な町である。もちろん、ちょっと裏にはいると相変わらず水路の中などはゴミだらけだし、港に近い旧市街地にはいかにもアジアといった市場が連なっているものの、少なくとも幹線道路沿線にはゴミがあまりない。

とくに周辺の村々が清潔なのは、特筆すべきことだ。

町も村も、とても生活が豊かだとは見えないが、住んでいる人たちはみんな快活で、挨拶に返してくれる明るい笑顔を見ると、こんなに無防備でよいものかとこちらが心配になる。

ンガルポロ村

Y氏にホテルに送ってもらった後、バイクを借りて周辺に足を伸ばしてみた。

まずは、海沿いに東に走る。数分で市街地を抜けて海岸に沿った道となる。それもクネクネと曲がりながら絶壁の上を上がったり下がったりする、過酷なジェットコースターの道である。舗装してあったり、土のままだったり。土の区間では雨水でかなりえぐれているところがあるし、土砂崩れが放置されたところもある。
道幅はかろうじて1車線あるものの、自動車で来るには少し覚悟が必要だ。もちろんガードレールなどはない。

途中に人気のまったくない延々と続く道をかれこれ10数キロ進んだところで坂を下ると、森陰から突然集落が出現した。
道と言えるものは、この先にはどうもなさそうで、ここが行き止まりである。

集落にはいった途端に、子供たちが大勢歓声をあげながら走り寄ってきた。「どこから来たの?」「どこへ行くの?」「そのタバコは何?」と質問を浴びせてくる。
どう見ても隠れ里としか思えない僻地の集落に、こんなに子供がいるのに驚いた。しかも、インドネシア語をちゃんと話すのである。教育水準も高い。

けっこう人家の数も多く、ゆるい傾斜地に傾斜方向に3本の街路が通っていて、その周りに密集して人が住んでいる。何人住んでいるのか尋ねてみると、聞いた人によって「3,000人」「1,000人」「たくさん」とまちまちではあったが、少なくとも数百人ということはないだろう。

村の中心部にちょっとした広場があって、そこに面して祭事用と思しき建物数棟と小さな軒先ショップがあった。とりあえず店先にバイクを止める。そこに腰かけていた老夫婦と対面する。こちらには後を追ってきた子供たちがまとわりついている。
広場はきれいに掃き清められてゴミひとつない。

「コーヒー飲めますか?」「OK」
「家内は病気で、ここに座ったままです」というとおり、奥さんのほうはどこかを見つめたまま、わたしがいる間中表情を変えることがなかった。
主人はその奥さんと一緒に、おそらく日がな一日ここにこうして座っているのだろう。この人が、この村の名前が “ンガルポロ” で人口が「3,000人」と教えてくれた人である。

「ここに滞在することもできる。ホテルではなくてホームステイだけど。この村には泥棒はいないから、エンデに泊まるよりも安全である」
コーヒーは“フローレス・コーヒー”ということだったが、ほのかにジンジャーの香るうまいコーヒーだった。
子供たちに囲まれてそれを飲みながら、「これは、桃源郷に来たのかもしれないな」という思いがふとよぎった。そのせいもあって、「次は必ず泊まりに来るから」といって広場を後にしたのだが、それは本心である。

その後村の中をあちこちうろついてみたのだが、ゴミがない。
それから、ここは海からはかなり離れているし、周辺にまとまった農地があるわけでもないことに気がついた。ところどころに開けた草地があって、牛やヤギがちらほら草を食んでいるのを見かけたし、家の前で機織りをしている女性を見たりしたが、それで食べていけるようなものではないだろう。
どうやって暮らしているのか、初めて訪れた我が身からみると、まったくの謎であった。ますます桃源郷である。

行き止まりだと思っていたところ、Googleの航空写真で見るとかろうじて道らしきものがさらに東に延びていて、またそれを10キロほど行ったところに突然屋並が何軒か見える。その先もそんな調子で続いているらしい。

ヲロカロ教会

ンガルポロ村から戻って、別の日に今度は山を目指した。
実は、エンデの港から見上げた背後の山の中腹に、海に向いてポツンと立っている小さな白い教会が見えたのである。あそこに行ってみよう。地図には ”Kapela Stasi Wolokaro” と記されている。

これも凄まじい道であった。こっちのはずだと行ってみると、滑り落ちそうな急勾配を下りて細い急坂を上がり、さあこの上だと思うところで道がとぎれていたり、さんざん迷いながら、およそ標高200メートルの目的地にやっとたどり着いた。市の中心からほんの5キロほどしか離れていないのだが、途中ここでも山肌に抱かれた隠れ里をいくつも見た。

カトリックの教会である。町中のどこからでも見えるので、当然ながらすばらしい眺望だ。
眼下にエンデ港とその周辺の市街地が広がり、空港の向こうにプリンが座っている。その向こうはサブ海である。サブ海はその先でインド洋につながっている。

教会の建物は、この地方のほかの建物がそうであるように、鉄筋コンクリートの細い柱梁の間にレンガで壁をつくり、モルタルを塗った上にペンキで塗装し、屋根は波板トタン葺きという簡素なものであった。しかし、この立地といい、小さいながら威風堂々とした構えといい、侮れないものがある。

などと思いめぐらせながら眺望を楽しんでいると、こちらに向かって階段を上がってくるひとりのご婦人が見えた。よく見ると、その後ろから赤ちゃんを抱いた若い女性もふうふう言いながら上がってくる。
どうも、知らない人がいるからいろいろと教えてあげなくては、というような親切心でやって来た、下の方の民家の住民らしい。

こちらの語学力のせいで二人からあまり詳しい話は聞けなかったが、当然ここは無住で、司祭は下の住宅に住んでいる、ということはわかった。

地図上では、ここよりも奥地と思われるところに、カトリック教会やイスラム教のモスクがたくさん見える。
フローレス島全体がどうかはわからないが、少なくともこの周辺の地域では、海辺にも山の中にも星々のように点在している小さな隠れ里が、お互いにか細く連帯しながら全体を構成しているのではないかと思えた。エンデなどの市街地はきわめて特殊な存在なのである。

そういえば、エンデからクリムツ火山への道中にも、いたるところに山中の小さな集落があるのが遠望された。

コリバリ村

ヲロカロ教会の上にもさらに細い道が伸びているので、ついでに上ってみることにした。

数百メートル行くと、ここでも突然小さな集落に出る。老若男女が大勢いる。なんだなんだ、という顔でこちらを見ている脇を大声で挨拶しながらすり抜けていくと、民家の敷地にはいってしまった。そこにも何人もの男が何かの作業をやっていて、驚いてこちらを見る。
身振り手振りで、この先は行けないと告げる。ここもやはり行き止まりの集落であった。

しかたなく、さっきの大勢の人のところまで戻ると、なかの一人の老人がバイクを制止して脇の看板を見よという。傾いた支柱に打ち付けられて半分ほどちぎれた木の板に、「入場料2,000ルピア」と書いてあるのが読み取れた。なんの入場料かよくわからなかったが、その老人についていくと、目の前に急峻な谷を越えてそびえたつ小さな独立峰の頂が見えた。そこに登る階段も樹間にちらちら見える。
あの山に登ると眺めがよい、行くのなら入場料を払う必要がある、云々、ということのようだが、どうも要領をえない。
たまたまかもしれないが、ンガルポロの子供たちに比べて、このあたりの人の話すインドネシア語は、ひょっとしたらエンデ語とごっちゃになっているのではないかと思うほど聞き取れない。

そこへ、小柄な若い女性が援軍であらわれた。彼女がニコニコしながら英語に同時通訳してくれたところによると、あの山に自分をガイドとして連れていけ、安くしておくから、ということだったようである。これは相当にハードな行程と見えたので、丁重にお断りして「次回にね」ということにした。

この後、行きがかり上、彼女の実家の家にお邪魔してコーヒーをご馳走になった。あのフローレス・コーヒーである。

椅子はふたつあったのだが、テーブルがなかったので、彼女は自分の椅子をテーブル代わりに差し出して地べたに座り、こちらがコーヒーを飲むのを嬉しそうに見上げていた。

シンガポールで2年間仕事をして、契約が切れたので故郷に戻ってきたのだという。それで英語は得意、新婚でまだ子供はいない、住んでいるのはこの家ではなく、ちょっと下ったところの家、名前はアミナといいます、次に来たときは「アミナはどこだ」と尋ねてもらえれば、また会えます、また来てね。

こんな調子だから、こちらも純粋無垢で天真爛漫な人間にならざるをえない。

彼らは、オーストラリアに渡らずここに留まったホモ・サピエンスの末裔に違いない。
先住民のホモ・フロレシエンシスと多少争ったかもしれないが、しばらく共存した後、結局持続性のある文化を進化させて生き延びた。願わくは、これからも進化の道筋を違えないことを。

港の風景

港まで下りてきた。

さっき、ヲロカロ教会を見上げる前に、わたしは一隻の貨物船の積み込み作業を眺めていたのだった。
5~6百トンはあろうかという錆びついた鉄船で、桟橋につけないで船首を砂浜に乗り上げ、フェリーのような渡り板を下して、大きな発電機やパワーシャベルやコンテナなどをちょうど積み込み終わったところだった。

それで、満潮の前に始末をつけるために、陸側の大きなクレーン車が重い渡り板をワイヤで吊り上げようと悪戦苦闘している最中だったのだが、何度上げても蓋がしまらない。船の側で受ける腕がなぜかちょっと曲がっていて、その間に渡り板がはまらないでつっかえるのである。
何人もの作業員が右往左往して、腕にチェーンブロックをかけて引っ張ったり、渡り板を無理やりひねったりしながら、上げたり下げたりするのだが、いっこう埒があかない。

その様子をずっと見学していたら、とうとうヘルメットをかぶった監督がわたしのほうを振り向いて、肩をすぼませながら両手を開き「こりゃダメだわ」という恰好をして見せた。
今日の作業はこれで終わりだな、ということで、わたしはヲロカロへ出発したのだった。

あの船はどうなっただろう。

再び見に行くと、諦めて下した渡り板の上を大勢の子供たちがキャッキャ言いながら走り回っている。よく見ると、積み込んだ貨物の上にも何人も群がっていて、まるでガリバーを捕まえたリリパット国の兵隊のようであった。

ドボンドボンと音がするので、船腹のほうに目をやると、驚いたことに船体の小段に勇敢な少年たちが鈴なりにへばりついて立っていて、そこからの跳び込みを競っているのである。横にとりついたタグボートの上などは、もうアリがたかっている様であった。

子供は遊び場を見つける天才である。しかし、それを目を細めながら見ている大人も大したものだ。

展望トラック

楽しい遊びを見つける才能は、大人も引けをとらない。

正規の桟橋のある港のほうに回って、そこに集まった大型トラックの荷積みを見ていたら、荷台から大きくはみ出しても、とにかく積めるだけ積んでいる。さらに、満載した荷物や運転席の屋根の上にそのまま人が乗って出ていくのに感心した。

上に乗った人の目の高さは、地上から優に4メートル近くある。さぞかし爽快な風を切る旅であろう。

そう思って町中で観察していると、そういうトラックがひっきりなしに通る。荷台に余裕があっても、わざわざ運転席の上に何人も乗っているところをみると、そこがほかに代えがたい楽しい場所だからであろう。

クリムツに行く途中などでは、壮大な渓谷を見下ろしながら走るトラックの運転席の上に、角が生えたように人が座っていて、まるでお祭りの山車が疾走するのを見ているようだった。深い谷の上、遠くに点々と小さな集落を抱えた山の緑が見える澄み渡った高い空の下では、誰でもああしたくなる。

これが危なくないとは言わない、というよりも、危険極まりない乗り方である。しかし、だれもその爽快感と引き換えに命を差し出そうと思うはずはないから、必死の注意を払っているに違いない。
そして、その危険と緊張と楽しさと懐具合とを天秤にかけるのは、それぞれの勝手というものだ。

われわれの周りでは、活性化という言葉が何十年も使い古されて、それがどういう意味だったのかを忘れかけているが、実はこういうことではなかったのだろうか? つまり、それぞれの個人が、ワクワクすることを自由に選べるような生活を、お互いに支えあうというのが、活性化の基本ではなかったかと考えてしまう。

日本ではどうも、天秤をトップダウン的に法律や警察に委ねるようなやりかたを推し進めてきてしまった。そんなことをしていては、複雑系の人たちがしきりに警告するように、「創発的なイノベーション」など生まれるはずがない。
このまま行くと、100年先か1000年先かはわからないが、いずれ確実に進化から取り残された社会になってしまうだろう。


リリパットたちの歓声、トラックの上の男たちの勝ち誇った笑顔、星空のように分散した都市化以前の居住、隠れ里の落ち着いた暮らしを見ていると、そう思ってしまう。
エンデは、エデンであった。

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