設・空間整備
1998年に広島市が策定。
中央公園は、平和記念公園とほぼ連旦した都心の公園。
面積は43.6haで文字通り広島市のセントラルパークであるが、戦後半世紀を経て、周辺市街地の変化や公園施設(19施設30カ所)の増加等により様々な問題を抱えるに至った。
また、公園内外の施設再整備の動向などからみて、それらの更新の動きを中央公園自体の再整備に連動させるためのマスタープランが求められた。
このため「個々の条件変化が発生したタイミングで参照される長期的な誘導方針」という性格をもった基本構想となっている。
「A:オープンスペース特化案」「B:隣接地連携強化案」の2案を提示。
A案では、新ドーム球場がJR操車場跡地に建設されることが既定の流れとなっている中で、公園内の既存市民球場の後利用について、基本的な施設を残したまま都市復興のシンボルとして新たな都心の文化発信の拠点に転用することを提案した。
この構想は、1996年、平和大通り将来構想検討委員会から広島市長に答申したもの。答申にあたって構想案のとりまとめを担当した。
幅員100m、延長4kmに及ぶ平和大通りは、平和記念公園と並んで「平和都市ヒロシマのシンボル空間」であり、広島市の戦後の復興と発展を支えてきた。被爆50周年にあたって、次の50年を展望したリニューアルの基本方針を提示。
沿道と一体化した魅力ある都市空間、交通機能・防災機能の確保、などを念頭におきつつ「豊かな市民生活を支え、市民が生きる喜びを実感し、平和をつくり出す大通り」を将来像として掲げた。
構想案のとりまとめに並行して、平和大通りを考えるキャンペーンの一環で、1995年にシンポジウム「輝け!平和大通り」を開催し、デザイナー栄久庵憲司氏、建築家安藤忠雄氏、広島市長(当時)平岡敬氏による鼎談をプロデュースした。
1998年に廿日市市の街区公園の新設にあたって、地元住民によるワークショップを開催。
ファシリテータ&デザイナとして大久手計画工房の伊藤雅春氏を招き、広島県建築士会青年部等の協力を得て実施。
広島都市圏内での本格的デザインゲーム導入の最初の試みとなった。
全体の企画、プロデュースを担当。
広島市は長崎市とともに2020年夏期オリンピック・パラリンピックの招致検討を行うことを、2009年10月10日に表明。
10月31日に招致検討委員会を立ち上げて(構成自治体は、最終的にアドバイザの福岡市および応援委員を含めて209府県市町村となる)検討を進めたものの、2011年5月22日の第6回委員会で正式に招致断念と委員会廃止を決定した。
広島市でのオリンピック開催にあたっては、財源問題のほか、都市規模からくるさまざまな制約、とりわけ宿泊施設の容量や、選手村として要請される戸数と住宅市場規模との乖離など、物理的に大きなハードルが予想された。それは同時に、オリンピック大会の規模の肥大化によって、大国の首都クラスの都市でしか開催できなくなった要因でもある。
広島市は、平和オリンピックの理念を掲げ、地方都市でも開催可能なオリンピックのモデルを模索し、意欲的なオリンピック像の提案を行った。その成果は、今後の都市づくりに役立つものと期待される。
オリンピック招致検討委員会顧問として委員会の立ち上げ前から一貫して検討作業に参画し、開催理念の起草、選手村等の整備計画の立案、ホームページの監修、市民ワークショップの運営など、さまざまな分野での協力を行った。